戦時中に日本軍の慰安婦をさせられた韓国人女性らが日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、ソウル中央地裁が対照的な内容の二つの判決を下した。4月21日の判決が原告の請求を却下した一方、同じ地裁の別の裁判部による1月の判決では請求を認め、日本政府に対して元慰安婦への賠償を命じた内容が確定している。なぜ判決の結論は分かれたのか。
『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』(朝日選書)の著作がある朝日新聞編集委員・北野隆一氏が、韓国の二つの判決を読み解いた。



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 元慰安婦らが日本政府を相手取りソウル中央地裁に提訴した裁判は二つある。1月に原告勝訴判決が確定したのが第1次訴訟、4月に原告敗訴判決が出たのが第2次訴訟と呼ばれている。二つの判決で結論が正反対となったことは、韓国社会における慰安婦問題をめぐる意見の対立が司法に反映されたことの表れともいえる。しかし同時に、日本への賠償請求を否定した第2次訴訟判決でも、戦時中に女性らを慰安婦とした日本の行為を「国際人権法違反の深刻な人権侵害」と認めるくだりがあるなど、原告の主張をまったく切り捨てた内容とは言い切れない点も注目される。

 第1次訴訟のきっかけは、1965年に結ばれた日韓請求権協定についての日韓両政府の交渉過程を記録した文書を、韓国政府が2005年に「全面公開」したことだった。慰安婦問題が日韓交渉で話題とされず、請求権協定で「完全かつ最終的に解決した」とされる対象に含まれていなかったとして、元慰安婦らから補償を求める声が上がった。韓国政府が日本に外交交渉を働きかけなかったことについて、韓国の憲法裁判所が2011年、「韓国政府の不作為は違憲」と決定。元慰安婦らは2013年に日本への調停を申し立てたが、日本政府が応じず、不調に終わったことから、2016年1月に訴訟に発展していたものだ。

 原告は12人で、うち生存者は李玉善さんら4人。李さんら元慰安婦が暮らす福祉施設「ナヌムの家」が支援している。

 一方、第2次訴訟が提訴されたのは2016年12月。慰安婦問題をめぐる2015年12月の日韓政府間合意について「被害当事者の意向が反映されていない」と反発する李容洙さんら元慰安婦20人が、日韓合意から1周年を期して提訴した。一審判決時の生存者は4人。韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が支援している。挺対協は2018年、日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)と改称した。原告側は判決を不服として控訴する方針とみられる。

 二つの訴訟はいずれも、「国家には他国の裁判権が及ばない」とする国際慣習法上の原則「主権免除」(国家免除)が認められるかどうかが争点となった。第1次訴訟判決は主権免除を認めず、今回の件で韓国の裁判所が日本政府を被告とできると判断し、原告の請求を認容して日本政府に賠償責任があるとの結論に達した。これに対し第2次訴訟判決は一転、主権免除を認め、韓国の裁判所には日本政府を被告とする今回の件を裁く管轄権がないと判断し、訴訟そのものを不適法だとして却下している。

 第1次と第2次訴訟のいずれの判決も、原告ら女性たちが慰安婦とされた戦時中の日本軍や政府の行為を「深刻な人権侵害」などと認定した点では、ほぼ共通している。判断が分かれるカギになったのは、重大な人権侵害を受けた被害者の裁判を受ける権利を、主権免除によって制限してよいのかという点だった。第1次訴訟判決は、女性らを慰安婦としたことは「日本帝国により計画的、組織的に広範囲に行われた反人道的犯罪行為」であるから、主権免除は適用できないとして、「例外的に韓国の裁判所に日本政府に対する裁判権がある」と判示した。

 慰安婦問題の裁判に詳しい山本晴太弁護士によると、主権免除をめぐっては「国家のいかなる行為も他国の裁判権から免除される」という「絶対免除主義」が19世紀までは支配的だった。しかし20世紀には商行為などで「例外もある」との考え方が広がり、21世紀初めごろからは、重大な人権侵害を受けた被害者が裁判を受ける権利について、国家の「主権免除」原則よりも重視されるべき場合があるとする「人権例外」という考え方が浸透しつつあるという。

 第1次訴訟判決について山本弁護士は「アジアで初めて人権例外を認めた画期的判決であり、国際法の未来を切り開く内容だ」と評価している。

 一方で第2次訴訟判決も、女性らを慰安婦とした行為については「国際人権法などに違反する行為で、被害者に対する深刻な人権侵害となる」と認定した。ただし「深刻な人権侵害」を根拠に、第1次訴訟判決のように「主権免除の新たな例外を裁判所の解釈により創設すること」が認められるまでに「国際慣習法が変更されたとはいえない」とした。さらに、日本に対する主権免除を否定すると「判決の宣告およびその後の強制執行の過程で日本との外交関係の衝突が避けられない」ことなどから、「韓国の外交政策と国益に潜在的な影響を及ぼしうる」と外交上の懸念も指摘した。この問題は「行政府と立法府の政策決定が先行されるべき事項」であり、現状で裁判所が主権免除の例外を認めることは「適切でない」と結論づけた。

 第2次訴訟の原告らは、2015年の日韓合意を否定する立場から提訴した。これに対し判決は、「日本政府の責任を明確に解明できず、慰安婦被害者たちの意見を収集しなかった」点については、日韓合意の「内容と手続きに一部問題点がある」と指摘した。しかし同時に、「慰安婦被害者の相当数が現金支援事業を受領しており、合意が被害者の意思に明確に反するものと断定することは難しい」との認識を示し、日韓合意による「和解・癒やし財団」の事業を「代替的な権利救済手段」と認めるという一定の評価を下している。

 裁判の判決で訴えそのものを不適法として「却下」する場合は、主張された内容について検討したうえで「棄却」する場合よりも「門前払い」という印象を強く受けるのが通常だ。実際、日本政府は2019年5月、韓国政府に対して「日本政府が韓国の裁判権に服することは認められず、訴訟は却下されなければならない」と伝達している。

 今年1月、第1次訴訟の判決を聞いた菅義偉首相は「国際法上、主権国家は他国の裁判権には服さない。これは決まりですから。そういうなかで、この訴訟は却下されるべき、このように考えます」と言い切った。第2次訴訟の一審判決は、結論だけみると日本政府の立場に沿った形ではある。

 しかし第1次訴訟、第2次訴訟とも、地裁は判決のなかで、主権免除原則をめぐる国際法上の判例や条約解釈の変遷だけでなく、原告が訴えた被害の中身や日韓の外交交渉の経緯、被害者の救済のあり方にまで詳しく検討したうえで結論を出している。

 主権免除を認めて訴えを却下した第2次訴訟の判決でさえ、菅首相のように「これは決まりですから」と一刀両断せず、詳細な説明を尽くしている。その詳しさは、「門前払い」とはほど遠い印象を受ける。むしろ、主権免除の原則といえども絶対でなくなりつつある昨今の国際法の動向を反映し、「いくつかの条件が変わっていれば、判決には逆の結論もあり得たかもしれない」との含みすらうかがわせる。

 2000年に韓国、中国、フィリピン、台湾の元慰安婦ら15人が米ワシントンの連邦地裁に日本政府を相手取り提訴したときは、日本政府は訴訟手続きに応じて申立書を裁判所に提出し、主権免除の適用などにより却下すべきだと主張した。一方、今回のソウル中央地裁の二つの裁判に対しては、日本政府は外交ルートでは却下を働きかけたが、裁判そのものへの参加は一切拒否し、書面を裁判所に提出することもなかった。第1次訴訟判決への控訴もしなかったため、原告側勝訴が確定する結果となった。山本弁護士は「米国の裁判所の訴訟には応じるが、韓国の裁判所には応じず、判決も無視するという日本政府の対応は、明らかに韓国を蔑視した二重基準だ」と批判している。