「職場、地域のために死力尽くした クラブチームの増加はいいことだ」
ブリヂストン投手で出場した権藤博さん(元横浜ベイスターズ監督)

中日時代、毎日のように登板する姿から「権藤、権藤、雨、権藤」という名フレーズを残した大投手を育てたのは、社会人野球だった。企業スポーツの魅力と意義を語る。

負ければ、それで1年が終わり──。一発勝負のあの緊張感は今も忘れられない。私の社会人時代は、都市対抗が唯一の全国大会だった。各地の有力企業チームが、本大会が行われる当時の後楽園球場を目指して、一戦必勝の予選に死力を尽くした。長いペナントレースを戦うプロとは、プレッシャーがまるで違う。

  私が所属したブリヂストン(福岡県久留米市)は、九州地区で予選を戦った。門司鉄道(現JR九州)はじめ強豪チームがひしめき、炭鉱会社チームの全盛期。気性の荒い九州で、しかも炭鉱チームとの予選はグラウンドばかりか、互いの応援スタンドが殺気立った異様な雰囲気だったのを今でも覚えている。

  それだけチームと応援に来てくれる職場の社員との一体感が強かったということだ。シーズン中、私は午前8時から午後2時まで工場で働き、それから練習。仕事を効率よくこなし練習に専念するには、先輩や同僚たちとのコミュニケーションが欠かせない。仕事の進め方や段取りを話し合って改善したものだ。

  その中で、職場の協力や理解がなければ、給料をもらって野球をやらせてもらえないと感謝の念が生まれ、職場や会社、地域のために後楽園に行こうという強い気持ちになる。この気持ちは、社会人野球を経験しなければわからない。これが、社会人野球の真骨頂であり、私は誇りだと思っている。

  今年で89回目を迎える都市対抗を振り返ると、日本の経済構造や社会の変化を思わざるを得ない。数多くあった炭鉱や繊維、建設会社チームが次々に姿を消した。代わって今では、クラブチームが増えているという。私は、すごくいいことだと思う。一つの企業だけでなく、複数の企業や団体、自治体が地域ぐるみで社会人チームを支えるという姿があっていい。

    高校時代まで無名だった私がプロの注目を集めるようになったのは、社会人野球のおかげだ。冬場に河川敷をひたすら走り、砂場を何本もダッシュするという独自のトレーニングや地元九州の憧れの天才投手・稲尾和久さん(西鉄)の投球フォームを研究してまねることで、社会人3年目には、打者に芯でとらえられることはなくなった。

  社会人4年目の1960年、自チームは予選敗退したものの、本大会に進んだ日鉄二瀬の補強選手として後楽園のマウンドに立った。

  ◇社会人はプロの即戦力

  ニッポンビール(東京都)の北川芳男さんが国鉄(現ヤクルト)に入団して1年目に18勝したり、日本通運(浦和市、現さいたま市)の堀本律雄さんも巨人でいきなり29勝するのを見て、私もプロで10勝ぐらいは勝てると思った。彼らと社会人時代に投げ合って、決して負けなかったからだ。当時からプロに進む社会人は、即戦力だった。
 
 ただ中日に入団した1961年、「権藤は長いペナントレース、スタミナが持つか」と疑問視された。身長177センチながら、体重は60キロ台半ば、いかにもひ弱に見えたのだろう。

  そんな声を聞いて、私はひそかにほくそ笑んだ。真夏のカンカン照りの都市対抗で連投していた私にすれば、プロが使う設備の整ったグラウンドのナイターゲームは、天国のように思えた。開幕前のオープン戦で4勝負けなし。28・1イニングを自責点1の防御率0・31。プロでやっていけると、確信した。1年目に35勝(19敗)、2年目は30勝(17敗)の2年連続最多勝。でも、事実上この2年で終わった(笑)。
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 ■人物略歴
  ◇ごんどう・ひろし
 1938年生まれ。佐賀県立鳥栖高校から社会人野球ブリヂストンを経て61年に中日へ入団すると、35勝、30勝と2年連続で最多勝を獲得。だが、登板過多がたたって31歳で現役引退。98年横浜ベイスターズ(現横浜DeNA)監督に就任し、38年ぶりに日本一に導いた。79歳。 

聞き手・構成=浜条元保(編集部)

*週刊エコノミスト7月17日号「地域を引っ張る社会人野球」掲載