7月の最終火曜日だったその日、東京は快晴で、朝から気温はぐんぐん上昇した。午前7時27分、霞が関の検察庁舎正面玄関に黒塗りの大型車が滑りこむ。その後部座席から降りてきたのはひとりの大物政治家だった。彼は、カメラの放列の前に軽く右手を上げると、そのまま庁舎へと入っていった――。


その日は1976年7月27日、これが前首相・田中角栄の東京地検出頭の瞬間であった。このあと7時50分には田中に対して外国為替管理法違反の容疑で逮捕状が執行される。同年2月に発覚したロッキード事件では、すでに全日空や商社・丸紅の幹部が逮捕されていたが、政治家としては田中が最初の逮捕者となった。それからきょうでちょうど40年が経つ。

ロッキード事件は、アメリカからもたらされた。アメリカ上院・外交委員会の多国籍企業小委員会(通称・チャーチ小委員会)は、アメリカの航空機メーカーであるノースロップ社のサウジアラビアへの違法献金を追及するなかで、しだいにロッキード社に矛先を向けるようになる。調べてみると、同社は旅客機トライスターなどの売りこみのため各国で不正工作を行なっていたことが判明、さらに疑惑は日本へとおよんだ。1976年2月には、チャーチ小委員会の公聴会で、ロッキード社の副社長コーチャンが日本人に対する贈賄について証言し、事件は発覚する。

発覚から5カ月あまり。そのあいだに多くの政治家に対し疑惑が浮上していた。マスコミ各社は、検察の描く事件の構図の中心に田中がいるとにらんではいたが、捜査がおよぶにしても、それはほかの政治家のあとだろうと予想していた。それだけに、いきなりの前首相逮捕は青天の霹靂であったらしい。朝日新聞では「前首相逮捕」を想定した予定稿は用意しておらず、号外に載せる解説記事を、司法クラブキャップの記者が頭のなかで組み立てながら電話で読み上げて送稿したという。いわゆる「勧進帳」だ(村山治・松本正・小俣一平『田中角栄を逮捕した男 吉永祐介と特捜検察「栄光」の裏側』朝日新聞出版)。

ロッキード事件捜査を現場で指揮したのは、当時、東京地検特捜部副部長だった吉永祐介である(吉の士は正しくは土、祐のネは示)。ちなみに去る7月23日放送のNHKスペシャル「未解決事件 File.05 ロッキード事件」の第1部・第2部の再現ドラマでは、吉永を松重豊が演じていた。

田中の逮捕容疑は、「日本国内居住者」ではないロッキード社のための支払いであると知りながら、同社代理店の丸紅から4回にわたり計5億円の現金を受け取った外為法違反とされた(なお「対外取引原則禁止」を建前とした同法は1980年に改正されている)。起訴事実では、田中が最初のリベートを受け取ったのは1973年8月10日であり、外為法の公訴時効(3年)を目前にしていた。田中の逮捕を急いだのは、そんな事情があった。もっとも、吉永は当初より受託収賄罪での起訴を念頭に置いており、どうすればそれが成立させられるか精密に詰めるべく、時間かせぎのため外為法での逮捕になったという(前掲『田中角栄を逮捕した男』)。このあと8月16日、特捜部は、受託収賄の罪もあわせて田中を起訴した。

ロッキード事件の裁判は東京地裁で翌1977年に始まった。田中角栄は1983年10月12日、懲役4年の実刑判決を受けるも、東京高裁に控訴する。しかし控訴審を前にした1985年2月に脳梗塞で倒れ、出廷しないまま控訴棄却となる。けっきょく田中は最高裁に上告中、1993年12月に75歳で死去したため公訴棄却とされた。この事件で起訴された16人のうち、田中のほか4被告が公判中に死亡、残る11人については全員の有罪判決が確定している。

ロッキード事件「アメリカ陰謀説」の虚実


ロッキード事件における田中角栄の逮捕については、アメリカによる陰謀とする説も一部では長らく信じられてきた。この説が広まるひとつの発端となったのは、田原総一朗が「中央公論」1976年7月号に発表した「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」という論文である。その主旨は、田中が首相在任中に独自の資源外交を展開したことが、日本のエネルギー市場を牛耳るアメリカ石油メジャーの怒りを買い、メジャーの手先である当時の米国務長官キッシンジャーが謀略を仕組んだのではないか、というものだった。

田中政権の資源外交について田原に情報を提供したのは、元通産官僚で田中の首相秘書官を務めた小長啓一だった。だが、小長は後年、ジャーナリストの徳本栄一郎の取材に応えて、田中の資源外交がアメリカの虎の尾を踏み、ロッキード事件につながったというのは書きすぎだと断言している(徳本栄一郎『角栄失脚 歪められた真実』光文社)。

一方、最近刊行された奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』(岩波書店)によれば、近年秘密解除されたアメリカ政府の内部文書をあたったところ、キッシンジャーが田中を嫌っていたことは間違いないものの、それは田中の政策に対する反感ではなく、彼の人となりに原因があった。奥山はさらに、《「独自の資源取得外交」を理由に田中や日本政府が米政府に敵視されたり、やり玉に上げられたりしたことを示す文書は、もしそれがあるのだとすれば秘密指定をとっくに解除されているはずだが、私のリサーチでは米国立公文書館にも大統領図書館にも見当たらない》と、資源外交がロッキード事件の引き金になったという可能性は低いことを示唆している。

「虎の尾を踏んだ」説の根拠としてはまた、1975年9月にロッキード社の内部資料が「誤配」によってチャーチ小委員会に届けられたという話がよくあげられる。これはもともと米ウォール・ストリート・ジャーナル紙が報じたもので、石原慎太郎が田中を主人公とした小説『天才』(幻冬舎)でもとりあげられている。

同紙の報道によれば、チャーチ小委員会はロッキード社の各国への資金工作を調査するなかで、同社の監査人を務める会計事務所へ文書提出命令を出した。これに同事務所の弁護士は、ニューヨークの法律事務所に依頼して抵抗するつもりだったのに、二人の運び屋が文書を誤って小委員会に配達してしまったという。

この「誤送」について、チャーチ小委員会の首席法律顧問は明確に否定するコメントを出し、くだんのウォール・ストリート・ジャーナルの記事でも引用されたにもかかわらず、なぜか同紙はそれを無視して「誤送」と断定していた(前掲『秘密解除 ロッキード事件』)。

前出の『角栄失脚』では、チャーチ小委員会の元委員のひとりに取材し、《委員会の資料は真相を究明するため、ロッキード社から正規の手順で入手したものだ。あなたの言う陰謀 conspiracy などなかった》との証言を引き出している。また、『秘密解除 ロッキード事件』では、米国務省のある公電では、ロッキード社の複数の弁護士の説明にもとづいて、監査人からチャーチ小委員会に文書が渡った経緯が説明されているものの、そこには「誤送」への言及はなく、《もし本当に「誤送」があったのならば、これは不自然だ》と見ている。

『秘密解除 ロッキード事件』では、田中がアメリカの虎の尾を踏んだという説の主要部分は誤りだとしつつ、しかし、この説が誤りであることを完全に立証するのは「悪魔の証明」であり、そもそも不可能だと断定を避けている。著者の奥山に言わせると、重要なのは《「虎の尾」説が真実かどうかではなく、多くの日本人によって「虎の尾」説が信じられてしまっている、ということだ》。

《米国に楯突けば何らかの謀略で失脚させられ、政治的に葬り去られるのではないかという恐怖、米国を敵に回すことをタブーとする思考が、少なからぬ数の日本人政治家の潜在意識の底に沈殿した。これは紛れもない事実だ》

奥山はさらに、日本の政治家たちのそんな恐怖や懸念、不安が政策判断に少なからぬ影響を与えたであろうことを指摘し、さらに《今もその呪縛は続いているのかもしれない》と記している(前掲書)。

事実の露呈を恐れた有力政治家


ロッキード事件では疑惑を持たれながら逮捕されず、「灰色高官」として公表された6人のなかにも入らなかった有力政治家もいた。じつは、1976年夏には、ロッキード社よりカネの流れた全日空から裏金を受け取ったとして、当時建設大臣だった竹下登(のち首相)と衆院運輸委員長だった中川一郎が東京地検特捜部の事情聴取を受け、受領を認めている。この事実は、30年後の2006年にようやくあきらかにされた。

中川はこのあと1983年に自殺する。中川の秘書だった鈴木宗男は、謎の多いこの死について雑誌に手記を寄せ、中川が特捜部の事情聴取を受けたあと、秘匿された事実がトラウマとなり精神を苛んだことを明かした。鈴木の言うとおりだとすれば、中川は事件への関与を隠し通しながらも、その事実が漏れるのではないかという恐れを常に抱き、ついには自らを死に追いやったことになる。

中川一郎に付き従った政治家のひとりに、石原慎太郎がいる。そういえば、石原は、編集者の見城徹が新たに出版社(幻冬舎)を立ち上げるにあたり、弟の裕次郎(俳優)か、あるいは中川一郎か、どちらかの真実を書いてほしいとの依頼を受けたという。結局、中川については墓場まで持っていくとの理由から、かのベストセラー『弟』が書かれることになった。

はたして石原が「墓場まで持っていく」とした真実のなかに、鈴木の言っていたようなことは含まれるのか。これは邪推にすぎるかもしれないが、ひょっとすると石原に田中角栄の小説を書かせたのは、田中への想いという以上に師である中川一郎に対してのそれだったのではないだろうか。
(近藤正高)