先に書いてしまうと、『ヒトラーへの285枚の葉書』は相当重くてつらい映画である。でも、だからこそ今見ておくべき作品だろうとも思う。


実話を元にした、ある夫婦の小さな反ナチス運動


1940年、ドイツはフランスとの戦争に勝利し、首都ベルリンは戦勝ムードで沸き返っていた。そんな中、家具工場の職工長を務めるオットーとその妻アンナのクヴァンゲル夫妻の元に、息子ハンスの戦死を知らせる郵便が届く。最愛の息子の死にふさぎ込む夫妻。アンナは息子の死を「あなたとあなたの総統のせいだ」と言い、オットーをなじる。ある夜、決意を固めたオットーはポストカードとペンを用意し、「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」と怒りのメッセージを書く。それを見て協力を申し出るアンナ。

ヒトラーとその政権を強く批判したメッセージを書いたカードを、ベルリンの街中にそっと置く。たった二人だけのこの「攻撃」を繰り返すクヴァンゲル夫妻。彼らが住むアパートではユダヤ系の老婦人が追い詰められた果てに自殺し、ゲシュタポの監視も強まりつつあった。それでもカードをベルリンの街に起き続けるクヴァンゲル夫妻。相次いで通報される政権批判のカードに業を煮やした親衛隊の将校からどやしつけられ、ゲシュタポは死者が出ることすら厭わない強硬な捜査に乗り出す。

実際に1940年から1943年にかけておこった、ハンペル夫妻による反ナチス抵抗運動をモデルにした映画である。実際の事件の結末の通り、夫妻のささやかな抵抗は実ることなく終わり、夫妻によって285枚書かれた「葉書」のうち、ゲシュタポは267枚を市民からの通報によって回収する。通報されなかった葉書はわずか18枚にすぎず、夫妻のメッセージがベルリン市民に広がることはなかった。ハンペル夫妻は1943年に処刑されている。

『ヒトラーへの285枚の葉書』では、物の言えない社会、政権批判すらできない世の中とはどういうものなのかが、寒々としたベルリンの風景とともに描かれる。そこらじゅうに軍人や警察官、さらにはゴロツキまがいの突撃隊やらヒトラーユーゲントやらがうろつき、同じアパート内ですら相互に監視しあう戦時下のベルリンの空気はとにかく重苦しい。しかも1940年の大勝利から1943年の連合軍の爆撃を受けるようになった時期までが連続して描かれるので、徐々に空気が悪くなっていく様を追体験できる。とにかくヘビーな映画だ。

そんな重い空気の中続けられてきたクヴァンケル夫妻のささやかな抵抗は、秘密警察の捜査によって脆くも打ち砕かれる。オットーに加えられる拷問など痛ましい場面も多い。だが、筆者は最後まで目を離すことができなかった。この映画の主人公であるクヴァンケル夫妻の「顔」があまりにも魅力的だったのである。

顔を持つ夫妻と、顔のない社会


主人公であるクヴァンケル夫妻を演じるのは、ブレンダン・グリーソンとエマ・トンプソン。この二人の顔が圧倒的にいいのだ。ブレンダン・グリーソンはシワやたるみが重力に逆らえなくなってきた目つきの厳しい頑固そうな中年男オットーを、エマ・トンプソンは生活の中で疲弊した主婦らしいシワの刻まれたアンナをそれぞれ演じているのだが、彼らの顔のディテールは本当に見ていて飽きない。

二人それぞれの顔面に寄っている小じわや皮膚のくたびれ具合は、これまでの年月が積み重ねてきた年輪のようで、それが乏しい光源によって彼らの顔に細かな陰影を落とす。この中年夫婦の上に折り重なってきた苦楽を想像させるに、充分なディテールを持った容貌である。

堅実に暮らしてきた職工とその妻が、今まで想像もしたことがなかったような、地味ながら大胆な抵抗活動に手を染める。彼ら二人の顔に刻まれた生活の匂いがあればこそ、この大胆な飛躍が説得力をもって描けたのだと思う。彼らには積み上げてきた生活があり、その中には最愛の息子も存在し、そしてそれは国家によって奪われたのだ。主演二人の顔は、自分たちの暮らしを奪われたことへの怒りを見るものに突きつける。

終盤、オットーが処刑場へと連行される場面。彼を連行する刑務官たちの顔は映らない。印象に残らないのではなく、首から下しか画面に入っていないのである。豊かなディテールを備えた「顔」を持つ個人として戦うか、顔のないシステムの一部として体制に順応するか。あの場面には鮮やかすぎる対比があった。