著名人の家族の歴史を毎回、徹底取材によりあきらかにするNHK総合の番組「ファミリーヒストリー」。今夜7時半から放送される73分拡大版では、国際的に活躍するミュージシャンの坂本龍一が登場する。


坂本龍一の家族といえば、彼の父親・坂本一亀(かずき)は、戦後文学史に残る数々の作家、作品を世に送り出した名編集者として知られる。きっと今回の番組でも大きくとりあげられることだろう。折しも放送のタイミングで、一亀のかつての部下・田邊園子による評伝『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(作品社、2003年)が、両者の古巣である河出書房新社より文庫化された。当記事では同書などを参照しながら、坂本一亀その人の業績を振り返ってみたい。

三島由紀夫『仮面の告白』起稿の日付をめぐる謎


坂本一亀は1921年、福岡県甘木町(現・朝倉市)に生まれた。旧制中学卒業後、上京して日本大学の国文科に進むも、太平洋戦争中の1943年に学徒出陣で戦地・満州(現在の中国東北部)に赴く。敗戦時は少尉で、九州などを管轄区域とする陸軍・西部軍の通信隊にいたという。

終戦後、郷里に復員してもしばらく小説ばかり読んでいた坂本は、久しぶりに外出して立ち寄った書店で文芸雑誌「近代文学」の創刊号を手に取る。そこには埴谷雄高(はにやゆたか)の『死霊』など、それまで読んできたどの小説ともまったく異なる小説が掲載されていた。この出会いが、その後の彼の進路を決める。

1947年1月、彼は河出書房(河出書房新社の前身)の元社員の紹介を得て同社に入社した。新人ながら同年7月には社の伝統的企画である「書き下ろし長編小説」シリーズの復活を提案し、実現させている。翌48年6月にはシリーズ第1作として椎名麟三『永遠なる序章』が刊行された。

それから2カ月後の8月、坂本は、「書き下ろし長編小説」の2作目を、当時新進作家だった三島由紀夫に依頼するため、彼の勤務先の大蔵省(現・財務省)の仮庁舎へ赴く。東大法学部から高等文官試験を1回でパスして大蔵官僚となった三島だが、書き下ろしの依頼に即座にOKすると、「俺は今度の長編に賭ける」とその翌月には大蔵省をやめてしまった。

こうして次の年、1949年7月に刊行されたのが『仮面の告白』である。24歳の三島は同作により作家としての地位を確立した。当初、この年2月に予定されていた脱稿は4月までずれ込む。三島が全340枚の原稿を坂本に手渡したのは、神田の喫茶店「ランボオ」でだった。このとき、すっかり疲れ果てながら原稿を渡す三島の姿を、作家の武田泰淳が目撃している(ランボオには、のちに武田と結婚する鈴木百合子が給仕として勤務していた)。三島が憔悴していたのは、坂本から厳しい催促を受け、連日徹夜で追い込みをかけていたためだ。

ちなみに、依頼を受けてから三島が坂本に送った手紙には「(1948年)11月25日を期して、『仮面の告白』を書く」と書かれていたという。それから22年後、1970年の同日に三島が割腹自殺を遂げたとき、この日付に何か意味があるのかと思った坂本は、彼の夫人や母親に問い合わせてみたものの、結局わからずじまいであった(毎日ムック『シリーズ20世紀の記憶 第13巻 連合赤軍・“狼”たちの時代』毎日新聞社)。

社長に無断で出版、長編に4度も書き直しを命令…数々の伝説残す


その後も坂本一亀は、戦後派と呼ばれる当時の新進気鋭の作家たちの長編を次々と企画する。椎名や三島より前に書き下ろしを依頼されていた野間宏は、1952年、軍隊内部を舞台とした『真空地帯』を上梓、その題名は流行語にもなった。

また、中村真一郎は『死の影の下に』に始まる長編5部作を1948年から52年にかけて刊行した。この5部作のうち、第2部『シオンの娘等』と第3部『愛神と死神と』までは予定どおり刊行されたものの、続く第4部『魂の夜の中を』と第5部『長い旅の終わり』はなかなか社長の河出孝雄から出版の許しが下りなかった。だが、坂本は第4部の原稿を受け取ると無断で出版してしまう。彼は退社覚悟で社長に詫びに行くが、社長はただ一言、しかたがないと言ったきりで、そのまま第5部も出版可ということになったという(『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』)。

その後、河出書房は経営不振から1957年に倒産、200名の社員が退職し、残った十数人により河出書房新社として再起をはかった。ただし、純文学の書き下ろしは状況的に難しいと考えた坂本は、当時ブームとなっていた推理小説に目をつける。このとき新人だった水上勉に依頼した長編(1959年刊の『霧と影』)に対し、4度も書き直しを命じたという話は語り草だ。

1961年には小田実(まこと)の旅行記『何でも見てやろう』を手がけた。小田は1958年から60年まで欧米・アジア22カ国をまわって日本に戻った直後、坂本に会いに来た。旅先での体験談を面白く聞いた坂本は、それを書いてほしいと依頼。旅行記をとの申し出に、小田は当初、書くなら小説を書きたいと渋ったものの、結局承諾する。同書は発売されるや爆発的に売れ、その後もロングセラーとなり、多くの若者を海外放浪へといざなった。

1962年には文芸誌「文藝」が復刊し、坂本は編集長となる。復刊に先立ち、長編小説を対象とした新人賞「文藝賞」を設けるとともに、将来を嘱望される若い作家の卵たちに呼びかけ、「『文藝』新人の会」という懇談会を始めた。第1回文藝賞は、前年に京都で出会って応募を勧めた高橋和巳の『悲の器』が受賞。一方、新人の会には、小川国夫、黒井千次、後藤明生、坂上弘、立原正秋、辻邦生、真継伸彦、丸谷才一、山川方夫、結城昌治など多くの若手が参加し、このあと続々と文壇にデビューする。坂本が「文藝」編集長を務めたのはわずか2年ではあったが、その間に残した仕事はきわめて濃いものとなった。

新人発掘にこだわった背景には戦争体験が


坂本一亀が世に送り出した作家にはこのほか、島尾敏雄、井上光晴、小林信彦、劇作家の山崎正和などがいる。面倒見もよかったのだろう、作家たちは自宅にもよく訪ねて来た。坂本龍一は少年時代、小田実や高橋和巳が来宅して、朝まで酒を飲んでは、ワーワー言ってたのをよく憶えているという(坂本龍一『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』角川書店)。

田邊園子は、《坂本一亀は既存の流行作家を追いかけることを嫌い、他の編集者が注目しないような目立たない執筆者に注目し、激励した。彼はたえず無名の人のなかに可能性を探ろうとする努力を続けていた編集者であった》と書いている(『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』)。彼がそれほどまでに新人発掘に力を注いだのはなぜなのか? これについて本人は次のように語っている。

《新宿の酒場で、ある大手出版社の編集者に罵倒されたこともありました。「坂本は新人相手に、いい気分になってやがる」とね。
 でも、僕は発掘して育てたかったのです。戦争体験が、そうさせたのだと思います。兵隊に行って帰ってきた。かなり精神的に参ってね。だまされたわけです。だましたほうも悪いけれど、だまされた自分も不甲斐ない。そのために、同年代の人たちが死んでいった。社会人として世に出る機会も与えられず、彼らは死んでしまったわけです》(『シリーズ20世紀の記憶 第13巻 連合赤軍・“狼”たちの時代』)

河出書房新社は1968年に2度目の倒産をし、すでに役員だった坂本は再建のため奔走する。1971年には、育てた新人のなかでもとくに手塩にかけてきた高橋和巳が39歳の若さで亡くなった。このとき坂本は弟に死なれたような気持ちを抱いたという。その4年後、彼は退職し、昔の仲間たちと構想社という出版社を設立したが、1981年に体調を崩して一線を退いた。

坂本龍一がイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の一員として活躍を始めたのは、ちょうどこのころだ。作家の大岡昇平は、YMOのレコードを聴いて感心していたところ、そのメンバーの一人があの坂本一亀の息子と知り、電話をかけた。大岡が、息子の成功について「とにかくおめでとう。うれしいだろう」と祝福とも冷やかしともつかない言葉をかけると、一亀は「えへへ」とまんざらでもない反応を示したという(大岡昇平『成城だより』文藝春秋)。

ただ、YMOのアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』のジャケットで赤い人民服を着た龍一に、一亀は「俺はこんなことをさせるためにおまえに音楽を習わせたんじゃない」と怒るなど、何度か苦言も呈したこともあった。

80年代後半のある年の正月にも、実家で龍一がおせち料理を食べていると、一亀は息子のカバーした沖縄民謡「安里屋ユンタ」について、《おい。本当に、これがおまえの音楽なのか》と怒鳴った。これに龍一は《自分の音楽としてまじめにやっているんだ》とさすがに頭に来て、親子で取っ組み合いの喧嘩になる。だが、力づくでつかみかかると、父はあっけなく倒れて、組み伏されてしまう。このとき、龍一は父の「老い」に気づいてハッとしたという(「日本経済新聞」2009年3月28日付)。

龍一にとって、仕事が忙しくて家にはほとんどおらず、家にいればいたで軍人のような命令口調で怒鳴っている父親は近づきがたい存在であった。それでも、収入はけっして多くなかったにもかかわらず、ピアノのレッスンに加え作曲の個人教授までつけてくれた父に、彼は後年、感謝した。

坂本一亀は2002年9月に80歳で亡くなった。このとき坂本龍一はヨーロッパをツアー中で、訃報を自宅のあったニューヨークからの電話で知る。その後、出版された自伝のなかで、彼は父について次のように語った。

《ぼくが父に似ているような気がするところは、いろいろあります。あまのじゃくだったり、あまり表に出たがらなかったり。それから、2人とも人やものごとに惚れ込みやすく、すぐ夢中になるんです》(坂本龍一『音楽は自由にする』新潮社)

息子がそう語ったとおり、若い才能に惚れ込み続けた坂本一亀は、名伯楽としていまなお語り継がれている。
(近藤正高)