<前編のあらすじ>

3年前に離婚した36歳の健人は友人にうながされるまま、マッチングアプリを始めた。最初に出会った女性が年上の麗奈だった。

楽しそうに健人の話を聞いてくれる麗奈。そのしぐさの一つひとつや漂う、どこか不思議な雰囲気にも健人は惹かれ、二人は逢瀬を重ねるようになる。

前編:

聞いた上で判断してください。

健人と麗奈の関係は順調だった。過ごしている時間の1秒1秒が楽しく、麗奈の表情のひとつひとつが愛おしいとすら思った。

だが上手くことが運べば運ぶほど、解決しなければいけない問題がはっきりと目の前に立ちはだかってきた。健人は、逃れることができなかった。

「考え事ですか?」

いつの間にかこちらをのぞきこんでいた麗奈に、健人はかぶりを振った。

「あ、いえ……」

「もし私に不手際があったら何でも言ってくださいね」

「いえ、そんな、とんでもない。麗奈さんは僕にはもったいないくらい素敵な人です」

慌てて口を突いて出た。麗奈は視線を泳がせ、うつむく。耳がほんのりと赤くなっている。健人は「すいません。今のは」と言いかけて言葉を呑み込んだ。否定するようなことではない。むしろ事実だ。

「あの、麗奈さん」

完全個室になっているテーブル席に、健人の声が真っ直ぐ響く。口のなかが妙に渇いていた。

「結論から言いますと、僕はあなたのことが好きです。ぜひお付き合いしてもらえたらと思っています。ただ……」

麗奈も真っ直ぐに、健人のことを見つめ返している。

「僕がバツイチなのはご存知ですよね」

「はい。プロフィールにも書いてありましたし、初めて会ったときも、話してくださいましたので」

「でも、何で離婚したかまでは言ってませんでしたよね」

「そうですけど、無理してお話されなくてもいいと思ってます。個人的なことですし、過去のことですから」

「いえ、聞いてください。聞いた上で、判断してほしいんです」

ネグレクトの家庭で育ったんです……

テーブルの下で、健人の手は震えていた。健人は深く息を吸った。「分かりました」と頷いてくれた麗奈は、健人が次に口を開くまでじっと待っていた。

「僕は、今でいうところのネグレクトの家庭で育ったんです」

離婚の理由で始まった身の上話に麗奈は合点がいっていないようだったが、真剣な表情で耳を傾けてくれていた。そのことがとても心強かった。

ネグレクトとは子供や老人に対して関心を持たず、世話をしないことを言う。

健人がそんな仕打ちを受けているとき、ネグレクトという言葉はなかったから被害を受けているという自覚もあまりなかった。

「そんな環境で育ったので、親との思い出は何もありません。正直どうやって育ったのかすら俺には分かりませんでした。とにかく親のやり方を真似して、自力で何とか生活をしていたという感じでした」

麗奈は黙ってうなずく。

「2人とも、本当にろくでもない親でした。金遣いは荒いし借金なんかも作って、とにかく酷い生活を送っていたんです」

「……それは大変でしたね」

麗奈が慎重に言葉を選んで発しているのがよく分かる。話して変に気を遣われるのも嫌だったから、これまで極力人にこういう話はしてこなかった。それでも麗奈には知っておいてほしかった。

「何とかバイトとかで高校までは行けたので、就職をしてすぐに1人暮らしを始めて親とはすっぱりと縁を切りました。だから今ではあの2人がどうやっているのか俺は全く知りません」

健人は水を飲んだ。大して味のしないはずの水がやけに苦く思える。

「自由になったと思ってました。地獄みたいな家での生活をなんとか切り抜けて、前の妻と友人の紹介で知り合って、ようやく幸せになれると思ったんです。でも、結婚してしばらくして、自分がまだあの家に囚われていることに気づきました」

「えっと、それは、どういう……?」

「すいません。うまく話せなくて」

困惑して眉を寄せた麗奈に、健人は自嘲するような笑みを浮かべる。

離婚になったワケは

「いえ、大丈夫です。真剣に聞いてますから、安心して話してください」

健人は麗奈に礼を言い、再び深く息を吸う。

「前の妻は、子どもが好きでした。それにたぶん、両親からのプレッシャーみたいなものもあったんだと思います。だから結婚してすぐ、妊活をしたいと言われたんです。でも、僕はどうしても無理だった。自分がうまく父親をやれる自信が湧かなかったんです」

健人は力なく項垂れた。何かを掴みかけたように曲がったまま固まった指が怯えるように震え続けている。

「親のせいにするつもりじゃないんですが、自分が親からまともに愛情を注がれてなかったせいか、ちゃんと子どもを愛してやれる自信がなくて、妊活に否定的な態度を取ったんです。そうしたらだんだんと距離ができて、結局、離婚ってことになりました」

心臓が不規則に脈打っていた。

マッチングアプリで婚活をするとき、年上がいいだろうとあたりをつけていたのもこういう理由だった。失礼な話だが、もう子どもを作りたいなんて思わない年齢だろうという女性のほうが気が楽だった。

だが、健人は麗奈のことを真剣に好きになった。だから、そんな安易な考えではなく、きちんと全てを話したうえで、自分との将来のことを考えてもらえたらと思った。

遅めの反抗期

「私はね、すごい過保護な家で育ったんです。というか、過保護すぎて、40歳になった今もずっと、そこで暮らしてるんですけどね」

次は私の番だとでもいうように、麗奈が話し出す。心なしか麗奈の声も不安定に揺れているように聞こえた。

「だから、海外旅行もしたことがないし、半熟オムライスも知りません。家で料理するって言っても包丁は握らせてもらえないし、門限は20時。当然、男性とお付き合いしたことだってありません。だから、遅めの反抗期だったんです」

「反抗期、ですか」

なんとなく想像はついていた。きっと彼女の家も、何かしらの問題を抱えた“特徴的”な家なのかもしれないと思っていた。ひょっとすると同じように親に悩まされ続けたからこそ、なんとなく通ずるような部分があったのかもしれない。

「はい。40歳になって、このままずーっとこの家で一生が終わってくのかなって思ったら、自分を変えてみたいと思って。今日だって、親には休日出勤だって言ってあるんですよ。もし男の人と会ってるなんてバレたら、汚らわしいって怒鳴り散らされます。自分たちだって、男と女として恋愛して、私のことを生んだのに、勝手な話ですよね」

麗奈は笑っていた。その笑みは軽やかだったが、同時に不安定に揺れているだけにも思えた。

「でも、反抗してみた甲斐がありました。私、これまでの人生で感じたことがないくらい、今が楽しいんです。健人さんと知り合えたから。マッチングアプリ万歳って感じです」

顔の横あたりまで素早く両手を上げた麗奈の動作に、健人は込み上げた笑いをこらえきれなくなる。きっと麗奈は、健人だけが過去の淀みを吐き出さなくて済むように、話してくれたのだろう。そしてそのうえで、今が幸せだと言ってくれたのだろう。

「ありがとう。麗奈さん」

「健人さん、手出してください」

麗奈がテーブルの上に手を伸ばす。健人は意味も分からず手を握る。お互いの指先にあった小さな震えは、打ち消し合うように溶け合って、お互いの少し高い体温だけが残る。

「私たち、似たもの同士だから惹かれ合ったのかもしれませんね」

「そうですね。かたちは少し違いますけど、苦労してますね、僕ら」

どちらからともなく笑みがこぼれる。きっと問題はたくさんある。麗奈の親を説得するのはきっと一筋縄ではいかないし、今は2人で過ごすのが心地よくても、そのうち子どもがほしくならないとも限らない。だが今、健人は素直に、麗奈のこの笑顔をずっと見ていたいと思った。

「世間知らずの不束者ですが、よろしくお願いします」

「こちらこそ。頼りない男ですが、よろしくお願いします」

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。