昨晩遅くまで降っていた雨のために、朝、さつきが庭に出ると紫陽花が陽光を受けてつややかに光を帯びていた。

「今年も立派に咲きましたね」

誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。さつきの言葉はどこにもいかず、見上げた空に広がる分厚い雲のようにいつまでも庭に残り続けている。

紫陽花は一昨年の春に病気で亡くなった夫が好きだった花だった。庭の花になんてちっとも興味を示さない人だったのに、梅雨のこの時期になると特に用もなく庭に出てみては、ゴルフの素振りをする振りをしながら咲き誇る紫陽花を眺めていた。

だからあのときも、さつきはあと3ヶ月頑張ろうと夫を励ました。たくさんの管に繋がれた夫は少し苦しそうに笑うだけだった。けっきょく、さつきの言葉は奇跡を起こすことはなかった。

あの人も天国で見ているだろうか。

つい先日、夫と同じ61歳になったばかりのさつきは、そんなことを思いながら灰色の空を見上げ、その向こうでこちらを見下ろしているだろう夫のことを思った。 

庭の紫陽花が……

異変に気付いたのはその日の午後だった。

久しぶりの晴れ間だったので、庭のあちこちに生えている雑草を抜こうと外に出た。ずっと同じ体勢でいると痛みを訴えだす腰やひざに年齢を感じる。健康には気をつけているし、元々の身体の丈夫さにも自信はあるが、いつまでこうして草むしりができるだろうかと固まった腰を叩く。持ち上げた視界に紫陽花が映る。折れた茎の断面が、さつきのほうを向いていた。

さつきは腰の痛みも忘れて駆け寄った。折れた茎に伸ばした手は小さく震えた。紫陽花に触れた指先から、苦痛が伝わってくるようだった。茎の断面ははさみで剪定したというよりも乱暴にむしり取ったような痕になっていた。

しばらくのあいだ、さつきはその場に呆然と立ち尽くしていた。太陽は流れる雲の向こうに隠れ、庭は薄っすらと暗くなった。許せない――やがてさつきはそう思った。

たしかに、丁寧に世話をし続けている甲斐あって、我ながら立派に咲いた紫陽花だと思う。だがこの庭はれっきとしたさつきの家の敷地のなかだ。勝手に入っていいわけがないし、もちろん紫陽花を千切って持ち去っていいはずがない。

犯人に文句の1つでも言ってやらなければ気が済まないと思った。紫陽花が夫との思い出の花であることを、その紫陽花が立派な花を咲かせられるように手間暇をかけて育てていることを犯人に伝え、もう2度とこんなひどいことをしないと約束してもらわなければならないと思った。

対策をすると

さつきはむしった草を片付け、バスに乗って駅前の家電量販店に向かった。店員に事情と用途を説明し、屋外用の家庭用防犯カメラを買った。できればこんな人を疑ってかかるようなことはしたくなかったが、他に方法が思いつかなかった。

家に戻ったさつきはさっそく、取扱説明書の細かい文字を懸命に解読しながら防犯カメラを設置した。専用のアプリをインストールしてスマートフォンに同期させると、スマートフォンから防犯カメラの映像がリアルタイムで確認できる優れものだった。もちろん録画機能もあるし、暗闇でも動くものに反応してよく映るので、いつ犯人がやってきても平気だ。

もしあの人が生きていれば、「これなら庭に出なくても紫陽花が見られるな」とでも言ったかもしれない。そんなことを想像しながらさつきは自分をなだめてはみたが、やはり手折られた紫陽花を思うと犯人を許すことはできそうになかった。

とはいえ、犯人とて毎日のように紫陽花を盗みにやってくるわけもなく、延々と咲き誇る紫陽花を録画するだけの日々が過ぎていった。

ひょっとすると犯人も後悔しているのかもしれない。一生懸命育てられた人様の庭の紫陽花を手折るなんて非道をはたらいてしまったことを悔やんでいるのかもしれない。だとすればそれでもいい。思い出の紫陽花がこれ以上損なわれることなく、安心して咲けるようになるならば、それ以上のことはない。

だが、そんな風に思い始めた矢先、さつきは録画に映り込んだ人影を見つけた。周囲を警戒する様子もなく門扉を開けて庭に入ってきたその人は、ぐるりと紫陽花を見渡し、そのうちの1つを力任せに千切ったのだ。リアルタイムではないと知りながらも、さつきは息を呑んで、声にならない悲鳴を上げた。犯人は目当ての紫陽花を手に入れると、非難するように葉を揺らしている他の紫陽花たちには目もくれず、庭から出て行った。

さつきは傘も差さずに庭に飛び出し、折られた紫陽花を確認する。痛々しい断面に視線を落としながら、奥歯を噛みしめる。霧のような雨が降っていたが、ぬれたってかまわなかった。

犯人は、3軒となりの家に住んでいる西川という老婆だった。

●逡巡するも、さつきは西川のいる自宅を直撃することにする。あっさり罪を認めた西川がさつきに告げたのは、あまりに悲しすぎる犯行理由だった。不憫に思ったさつきは一計を案じ……。後編:【】にて詳細をお届けする。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。