自分のキャリアの中で最も輝いていた時期

 1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。この世代の中心的選手であり、ドイツW杯出場も経験した茂庭照幸は自身のキャリアについて何を思うか。(取材・文:元川悦子)

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 松井大輔(オドラオポーレ)、石川直宏(FC東京)、大久保嘉人(FC東京)ら華やかな攻撃陣が印象的な2004年アテネ五輪世代。だが、阿部勇樹(浦和)を筆頭に守備陣も30代後半に差し掛かりながらハイレベルのパフォーマンスを維持している。3年ぶりのJ1復帰を果たし、ルヴァンカップ決勝進出を果たしたセレッソ大阪のベテランDF茂庭照幸もその重要な1人である。

 中学生の頃からベルマーレ平塚(現湘南)でプレーし、ユース所属ながら99年にトップ登録された彼は将来を嘱望されるDFだった。2001年ワールドユース(アルゼンチン/現U20W杯)の日本代表にも当然選ばれたが、大会直前に肉離れを発症。バックアップだった那須大亮(浦和)に後を託して帰国するという悔しい思いを味わった。

 それでも、原博実監督(現Jリーグ副理事長)に才能を買われ、2002年にFC東京へ移籍してから急成長。2004年アテネ五輪アジア予選、本大会を経験するとともに、2003年10月のチュニジア戦(チュニス)では国際Aマッチデビューも飾り、田中マルクス闘莉王(京都)とともに若手世代のDF代表格と位置付けられるようになる。

 2006年ドイツワールドカップは当初バックアップメンバーだったが、田中誠(解説者)のケガによって追加招集され、休暇中のハワイからアロハ姿でドイツ入り。出番はないと見られたが、初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)で坪井慶介(湘南)が負傷したことから途中出場する機会にも恵まれた。日本はこの大会で厳しい結果に終わったが、茂庭自身は「2004〜2006年頃までは自分のキャリアの中で最も輝いていた時期」と言い切る。

「ドイツに行って3日間はボールを触らせてもらえなかった。『お前は走っとけ』と言われてね(苦笑)。でも後から代表に合流した戸惑いはなかった。逆にグイグイ行こうと思ってましたね。

 マコさん(田中)はスタメンの可能性の高い選手だったかもしれないけど、俺が試合に絡めるほど甘くないと。何しろ一番下だったから、雰囲気だけはよくしようと思って、ホント先輩には失礼なことも言ったり、したりした(苦笑)。それで空気が和んだりすればいいやという感じでしたけどね」と当時を振り返る。

20代前半の急成長促したアテネ五輪代表での経験

 20代前半だった当時の茂庭が急成長を遂げることができたのは、アテネ五輪代表での経験が大きかったという。

「アテネ五輪代表では、チーム発足当初のジュビロ磐田との練習試合で0-7の大敗を喫したり、2004年の最終予選UAEラウンドで集団下痢事件が起きたり、ホントいろんなことがありました。

 啓太(鈴木)中心にミスチルの『終わりなき旅』の歌詞をホワイトボードに書き込んでいって、みんなで意見をぶつけあったけど、あのエピソードは俺自身も一番印象に残っています。あの時、ホントにチームが1つになれたなという実感が持てた」と彼はしみじみ語る。

 山本昌邦監督(現日本サッカー協会技術委員会副委員長)は思い入れのあった黄金世代の小野伸二(札幌)、曽ケ端準(鹿島)、高原直泰(沖縄SV=最終的に五輪辞退)3人をオーバーエージ枠で抜擢し、鈴木啓太らを五輪本大会のメンバーから外すという大胆選考を見せたが、茂庭はそれに対する理解も口にしている。

「啓太が外れたことはしょうがないことだよね。伸二さんやタカさんがうまいのは誰が見ても分かることだし、そういう判断もあるから。

 ただ、俺自身がより大きな衝撃を受けたのは、五輪代表の練習にマコさんと明神(智和=長野)が参加した時。マコさんはメチャクチャ身体能力が高いわけでもないし、明神さんもそう。じゃあ何がすごいんだろうと注目して見ていたら、技術やフィジカル、駆け引きや落ち着きとか全部がハイクオリティだった。

 ハイクオリティすぎるから全てが普通に見えちゃうのかなと。それも世界と戦ってきた経験から来るものなんだと一緒にプレーして痛感させられたんです。当時の自分は五角形の1個が突き抜けている選手がすごいと思っていたけど、ホントにすごいのは総合点の高い選手。そういう人が長くサッカーできるんだなと学ばされましたね」と彼は若かりし日の衝撃を述懐する。

目標の「36歳まで現役」はクリア。「次は38、40くらいまでやりたい」

 こうした経験を2010年南アフリカ、2014年ブラジル両ワールドカップにつなげてほしかったが、2007〜2009年の相次ぐケガで日の丸を背負うチャンスは遠のいた。

 2009年末にはFC東京との契約も満了となり、2010年にセレッソ大阪へ移籍。2014年にはバンコクグラスで1年間プレーし、翌2015年にはFC東京時代から関係の深い大熊清強化部長からの誘いでセレッソに復帰している。

 この年から2シーズンはJ2でのプレーを余儀なくされたが、持ち前の献身性とリーダーシップでJ1復帰に貢献。今季プロ18年目のシーズンを戦っている。

「今季はJ1に絡めてないけど、みんなが『出たい出たい』とエゴを出してチームがバラバラになったら話にならない。それに今、天皇杯もルヴァンカップも監督がうまくターンオーバーでやってくれてるから、俺自身にもいいモチベーションになってますよね。

 2007〜2009年は肩の脱臼を機に体のバランスが崩れて暗黒時代だったけど、セレッソに戻ってきてからまた体も動くようになったし、ケガなしにやれてるのはいいこと。自分の目標は36歳まで現役を続けることだったけど、そこはクリアしたんで、次は38、40くらいまでやりたいですね。

 俺らは『谷間の世代』って言われてきたけど、息の長い選手は沢山いると思います。『黄金世代』は最初から輝いてて、今もなお輝き続けているから別格ですけど、僕らの世代もみんな輝くものを持っててそれを各々磨き続けてきた。だから、ここまでやれてるのかなと感じますね」と茂庭は分析する。

今季終盤のテーマ。セレッソの初タイトルと盟友・石川直宏のラストマッチ

 20代前半の頃、未来を先取りした指導を受けたことも大きかったと彼は見ている。

「昌邦さんから『90分の中で1人がボールを持ってる時間はわずか1〜2分だ』と言われた時には、確かにそうだなと思いました。『2002年日韓ワールドカップで、ボールを奪ってから15秒以内のゴールが高い比率を占めた』というデータも見せられて、『15秒相手を遅らせられれば失点が減るんだな』と意識したし、今も1秒2秒を大事にして守備してます。

 サッカーは年を追うごとに変化してますけど、テクニックだけじゃなくて、プラスアルファの部分で差をつけていくしかないという傾向は年々強まっている。走りやハードワークが重要視されているのも、その流れだと思ってます。

 僕らがアテネ五輪の頃に言われたことと、今言われることはあまり変わってない気がする。あの時代に先を見据えた指導を受けられたことは、間違いなくベテランになった今につながっていますね。

 昌邦さんにはそういう意味で影響を受けたし、城福(浩=FC東京前監督)さんにもサッカーへの情熱の大切さを学んだ。原さんやレヴィー(・クルピ=元セレッソ監督)もそうだけど、いい指導者に出会えたことはすごく大きかった。自分が引退した後、こういう貴重な経験を生かせたらいいと思います」

 36歳になった今も真摯にサッカーと対峙する茂庭照幸。彼にとって今季終盤のテーマはセレッソの初タイトルに貢献すること。そして、長年の盟友・石川直宏(FC東京)のラストピッチに駆けつけることだ。

「ナオはJ3(FC東京U-23の出場)を目標にしているみたいなんで、様子を聞きながら自分もその試合に行けたいいですよね」

 こうした発言をするのも人情深い茂庭らしいところ。それが叶うのか否か。そちらにも注目しながらシーズン終盤を見ていきたい。

(取材・文:元川悦子)