ロシアW杯にも帯同した元横浜Fのホペイロ

 かつて、横浜フリューゲルスというJクラブがあった。Jリーグ発足当初の10クラブに名を連ねた同クラブは、1999年元日の天皇杯制覇をもって消滅。横浜マリノス(当時)との合併が発表されてから2018年で20年となる。Jリーグ発足から5年ほどで起きたクラブ消滅という一大事件を、いま改めて問い直したい。【前編】(取材・文:宇都宮徹壱)

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 今回の取材現場は六本木一丁目にあるタワービル。エレベーターで高層階にあるオフィスに到着すると、都内を展望できる広い窓、そして「SAMURAI BLUE」こと日本代表のディスプレイが視界に飛び込んできた。ここは日本代表のオフィシャルサプライヤーとして知られる、アディダス・ジャパンのオフィス。今回のインタビュイーは、同社に入社して20年になる。

 先日閉幕したワールドカップ・ロシア大会。今回の日本代表スタッフの中に、「元フリューゲルス」がいたことをご存じだろうか? しかも2人。麻生英雄と山根威信は、いずれも横浜フリューゲルスのホペイロを経て、日本代表のエキップメント担当となった。両者は神奈川県にある高校の同級生。先にフリューゲルスのホペイロとなった麻生が日本代表に引き抜かれ、その跡を継ぐことになったのが、今回の証言者となってくれた山根である。

 ブラジルで「用具係」を意味するホペイロは、今でこそサッカーファンの間で認識されているが、Jリーグ開幕間もない頃は(ブラジルから招かれた一部のプロフェッショナルを除けば)誰もが手探りで仕事を覚えていた。山根自身、高卒でこの道に入ったが「右も左もわからないところからのスタート」だったという。そして、スムースに仕事をこなせるようになった2年目の98年、突然の「合併劇」に遭遇することとなる。

 あの「Fの悲劇」の衝撃は、選手やサポーターだけでなく、当時21歳だった若きホペイロにも容赦なく降り注いだ。そんな中、山根は何を考えながら、クラブ消滅までのカウントダウンを過ごしていたのだろうか。さっそく当人の証言に耳を傾けることにしたい。(取材日:2018年2月19日)

フリーターからフリューゲルスのホペイロへ

 Jリーグが開幕した93年は、小田原の高校に通う1年生でした。いちおう小中高とサッカーを続けていましたけれど、県予選ですぐに負けるような弱小校でしたね(苦笑)。自分が将来、サッカーの仕事をすることなんか、当時はまったく想像できませんでした。高校卒業後、2年くらいは箱根にある甘酒茶屋というところでバイトしていたんです。要するにフリーターですね。

 そこは江戸時代から続く由緒あるお店で、僕はバイトと言いながらもいろいろ任されていたので、やりがいは感じていました。そこで20歳くらいまでやっていたのかな。

 フリューゲルスとの出会いですか? 麻生くんという高校の同級生がいるんですけど、彼がすでにフリューゲルスの用具係として働いていたんですね。彼は最初、アルバイト雑誌の求人を見つけて応募したら採用されたらしいです。

 そこで2年やっている間に、フリューゲルスの監督だった加茂(周)さんが日本代表監督になったので、クラブに在籍しながら代表でも用具係の仕事をしていたそうです。彼の話を聞いて「すごいなあ」とは思ったんですけど、そしたら麻生くんがこう言ったんです。「これから最終予選も始まるので、今後は代表チームに専念する。フリューゲルスの枠が空くから、面接を受けてみない?」って。

 あの当時、「ホペイロ」という名前自体、まだまだ業界でも知られていなかったと思います。日本での先駆者は、ヴェルディ川崎にいたルイス・ベゼーハ・ダ・シルバさんでしょうね。カズ(三浦知良)さんがブラジルから呼んで、その人が日本でのホペイロの先駆者になりました。

 そのベゼーハさんから技術を学んだのが松浦(紀典)さん。松浦さんはヴェルディから名古屋(グランパス)に移って、その時に(本田)圭佑や(吉田)麻也のスパイクを担当していたんですよ。他にも(清水)エスパルスの中山(喜仁)さんとか、FC東京も山川(幸則)くんとか、今では有名なホペイロが増えましたよね。

 ただホペイロの仕事って、松浦さんのように師匠がいたり、山川くんのようにスペインのオビエドで修行したり、そうやって学んできた人がほとんどですよね。それに比べて、僕も麻生くんも高卒で右も左もわからないところからのスタートでした。僕がフリューゲルスに採用されたのは、正式には97年の2月。

 ただ、前の年の天皇杯から現場に顔を出させてもらって、そこで麻生くんから引き継いだという感じでしたね。麻生くんは代表のスタッフとして、ジョホールバルにも行きました。あとを受け継いだ僕は、自分で勉強したり、松浦さんにお話を伺ったりしながら、何とか仕事を覚えていきましたね。

「スパイク磨きだけではない」ホペイロの仕事

 当時、若手選手が暮らしている寮に一緒に住んでいました。入団したばかりの選手とか、車を持っていないので僕が送り迎えをしていましたね。それでも食事が出ましたから、寮生活は楽でしたよ(笑)。朝食後、7時半くらいに出て、8時には戸塚のクラブハウスに入っていました。

 そこから練習の準備。練習のスタートが9時とか9時半だったので、それまでにボールの空気を入れたり、ドリンクの準備をしたり。ホペイロの仕事って、単純にスパイクを磨くことだけではないんですよ。しかも基本的にひとり。チームマネージャーもいましたけれど、用具系の仕事は基本的に僕の範疇でした。

 選手のトレーニングウエアは、前の日の夜に洗濯してセットします。シャツは半袖と長袖、いちおう両方揃えておきます。薩川(了洋)さんみたいに、半袖しか着ない人もいましたけど(笑)。

 それ以上に癖があったのがモト(山口素弘)さん。シャツやパンツに、LとかMとかサイズが書かれたタグがあるじゃないですか。モトさんはあれが「カリカリして嫌だ」っていうので、タグは全部カットしていたんですよね。ちなみにモトさんは、スパイクにもこだわりがあって、普通は汚れを落としてからクリームを塗るんですけど、モトさんは塗ってほしくない人なんですよね。塗ってしまって、怒られたこともありました(苦笑)。

 練習中ですか? だいたいGK練習のサポートというか、ボール拾いとかをしながら、あとはフィールドの練習道具の準備とか片付けとかですかね。ひとつのトレーニングが終わったら、その場所を空けなきゃいけないので、いつもグラウンドを走り回りながら片付けと準備を繰り返していました。

 練習はいつもだったら午前中の一部練(習)で、二部練は合宿のときだけでしたね。練習を終えた選手から、順番にカゴに洗濯物を入れていくんです。早い選手と遅い選手とで時間差があるから、ある程度たまったらすぐに洗濯機を回して、その間に用具の片付けをして、それから再び洗濯物を回収して、という感じでした。

「別次元の世界」だったワールドカップ

 洗濯には、けっこう時間がかかりました。ウチのユニフォームって、基本白じゃないですか。ですから毎日が芝の緑との戦いでしたね(笑)。練習後の洗濯に2時間くらい。それからボールや練習道具をきれいにして、もちろんスパイクの手入れもして。ひととおり仕事を終えるのは(夕方の)5時とか6時くらい。

 これが試合となると、自分で運転して用具を運んだりしていたんですが、今みたいにナビとかちゃんとしていなかったから苦労の連続でした。そんな時、バスのドライバーの山田(慎吾)さんが、ささっと手書きの地図を書いてくれて。現場でもいろいろ手伝ってもらったし、あの人には本当に助けられましたね。

 フランスでワールドカップがあった年(98年)は、フリューゲルスのホペイロになって2年目でした。開幕戦のブラジル対スコットランドは、室蘭でキャンプをやっていた時にホテルで見ていました。ウチから出場していたサンパイオが出場していて、しかも大会のファーストゴールを決めたときには、夜中なのに「うぉー! サンパイオ!」とか叫んでいましたね(笑)。

 身近で見ていたサンパイオは「手がかからない選手」という感じ。スパイクは僕が磨いていましたが、それ以外のことは基本的に自分でやっていました。それと、普通に日本語でコミュニケーションができていたのも、すごいなと思いましたね。

 あのフランス大会はサンパイオのほかにも、モトさんやナラ(楢崎正剛)さんも日本代表として出場していました。ですから、すごく思い出深い大会だったんですけど、自分にとっては目の前のフリューゲルスでの仕事がすべてで、ワールドカップなんてまったく別次元の世界でしたね。

合併を知り「またフリーターに戻るの?」

 ましてや日本代表のスタッフとして、自分があの舞台にいることなんて夢にも思いませんでした。それこそ変な話、フリューゲルスが消滅していなかったら、僕はずっとあそこでホペイロの仕事を続けていたんじゃないかと思います。実際、やりがいも感じていたし、居心地も良かったですし。

 合併のことを最初に知ったのは、実家からの電話でした。母だったのかな? そこはあまり覚えていないんですけど、「朝のニュースで今やっているから、すぐにTVを点けて!」って言われて。それから「うわっ! マジか?」ってなりましたね。当時、寮にはヤット(遠藤保仁)とか手島(和希)といった若手がいましたが、彼らが気づいて騒ぎになる前にクラブハウスに向かうことにしました。

 たぶん、その間にチームマネージャーと連絡を取り合っていたと思います。移動しながら「チームがなくなるっていうことは、オレも無職になるの? またフリーターに戻るの?」なんてことを考えていましたね。

 6時にTVのニュースを見たので、7時過ぎにはクラブハウスに到着していたと思います。すでにマネージャーは到着していて、今日の対応について確認しました。

 まずは混乱を避けるために「関係者以外立ち入り禁止」という張り紙をあちこちに貼ったことを覚えています。そのあとマスコミの人たちがたくさん来て、騒然とする中で選手が続々と到着しました。あとで知ったことですが、みんな前日の夜には合併のことは聞いていたみたいですね。練習前に社長が選手を集めて、あらためて合併を発表しましたが、特に若い選手は状況がよく飲み込めなかったと思います。当時21(歳)の僕ですら、理解できませんでしたから。

<後編につづく。文中敬称略>

(取材・文:宇都宮徹壱)