今では「一夫一婦制」のもと、子どもを家庭で養育する「近代家族」であることが、当たり前のように思われがちな天皇家。毎日新聞社で皇室担当記者を務めた森暢平・成城大学文芸学部教授によると、多くの皇族たちが近代家族を目指し、その時代なりの恋をしてきたと言います。その意味では、恋愛から家族をつくったとされる明仁(あきひと)皇太子・美智子妃の存在が大きいですが、実は美智子妃、一度は事実上の縁談辞退を申し入れられたそうです。それがなぜ「婚約承諾」へと劇的な転換を遂げたのでしょうか。

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事実上辞退の意味を込めた外遊

1958(昭和33)年6月21日、皇太子妃として正田美智子さんを候補として進める方針で宮内庁の選考チームが一致。昭和天皇の最終的な許可(御沙汰)を待つ段階に至る。

御沙汰後、宮内庁選考チームの小泉(編集部注:皇太子の教育掛で、選考首脳を務めた小泉信三)は8月16日、軽井沢の正田家別荘を訪れ、美智子さんを皇太子妃候補と考えていると両親に伝えた。事実上の縁談申し入れである。

意外なことに、重要だったのは、進行中の縁談話がないかの確認であった。

仮に、話があった場合、昭和天皇や元首相吉田を説得した努力が水の泡となってしまう。鈴木は、「我々の最も懸念した進行中の御縁談はない」と聞き、「最初の朗報であった」と回想する(「鈴木菊男回想」)。

ところが、事態は急転換する。正田家が「事の意外に驚き、これを固辞」(『昭和天皇実録』11月13日条)したためだ。美智子さんは8月17日にも、テニスをするように誘われていた。しかし、前日の縁談申し入れを受け、テニスの誘いを断る。それ以後、婚約発表の日まで皇太子と美智子は一度も会っていない。

それだけではなく、正田家は8月19日、美智子さんの外国訪問を決め、美智子さんはその日のうちに帰京してしまう。ベルギーのブリュッセルで開かれる聖心学院国際同窓会に日本代表として出席する名目だった。実際は「大きな渦から娘を出してやりたい」という親心、事実上辞退の意味を込めた外遊であった。

美智子さんの出発前の8月25日、小泉は帰京した正田夫妻に会い、正式に縁談を申し入れる。

外遊を中止してもらえないかと依頼したが(『週刊朝日』12月14日号)、両親は「決まったことだから」と冷たく対応した(佐伯晋証言)。外遊は9月3日〜10月26日の54日間。ベルギーだけでなく、イギリス・イタリア・スイス・フランス・オランダ・米国を巡った。逃避の旅である。