1996年の日米野球で指揮官を務めた野村監督、新井氏は打撃コーチとして参加

 野村克也監督に見出されてプロ入りし、現役時代には南海、近鉄で通算2038安打を放った新井宏昌氏。指導者としては1995、1996年にオリックスをリーグ連覇、日本一に導いた。ただ当時、名コンビを組んだ仰木彬監督には激怒されたことが2回だけあったという。本人の証言をもとに振り返っていく連載の第7回は「松井稼頭央を推薦、激怒された日米野球」。

 オリックスが日本シリーズで巨人を破り、日本一に輝いた1996年のこと。オフにはMLB選抜が来日し、NPB選抜との日米野球が行われた。カル・リプケン、バリー・ボンズ、アレックス・ロドリゲスらそうそうたる顔ぶれが日本に訪れ、メジャーでトルネード旋風を巻き起こした野茂英雄が凱旋。日本の野球ファンも大きな関心を示していた。

 このNPB選抜を率いたのが、新井氏をプロの世界に導いてくれたヤクルトの野村監督だった。メジャーのスター軍団に“真剣勝負”を挑むため、イチロー(オリックス)や松井秀喜(巨人)、清原和博(西武)、古田敦也(ヤクルト)ら豪華メンバーを招集。恩師からの推薦で、新井氏も打撃コーチとしてチームに参加することになった。

田中幸雄が右肘を負傷し、西武の松井稼頭央を緊急招集

 全8試合で行われる予定だった日米野球。各球団の主力が集結したが、内野の要となる遊撃のポジションでアクシデントが起きる。横浜(現DeNA)の石井琢朗、日本ハムの田中幸雄の2人が選ばれていたが、田中が右肘を負傷。追加招集が必要となり、新井氏は野村監督から「パ・リーグで誰か、いいショートはいないか?」と尋ねられた。

 新井氏は「素晴らしい肩と俊足の持ち主。打てるかは分からないが、日本人離れした身体能力を生かしたプレーは通用する」と考え、PL学園の後輩で、この年、西武で初めてレギュラーとして130試合に出場、打率.283、1本塁打、50盗塁をマークしていた松井稼頭央を推薦。松井稼は秋季キャンプに移動する直前だったが、関係者を通じ「今すぐ来てくれと」と連絡し、選出することが決まった。

 野村監督は第5戦から松井稼を「2番・遊撃」で起用。この試合でいきなり松井稼は3安打2盗塁をマークし、続く第6戦では1番に抜擢。第8戦までスタメンで出場し、計18打数10安打、打率.556の活躍を見せた。これにはメジャー関係者からも「この選手は誰だ?」と驚きの声が上がるほど。松井秀の「ビッグ・マツイ」に対し、松井稼は「リトル・マツイ」として、のちに注目を集めるキッカケとなった。

西武関係者から「選んでくれてありがとう」、野村監督も「いきのいい選手をよく見つけた」

 元々、ブレークの兆しを見せていたが、この日米野球で松井稼の知名度は一気に上がる。そして、翌年からは西武、そして日本を代表する遊撃手として活躍した。西武関係者からは「松井稼を選んでくれてありがとう」、野村監督からは「お前、選手を見る目があるな。将来、監督になれるよ」と、お褒めの言葉を頂いたという。

 MLB選抜との試合は2勝4敗2分で負け越すことになったが、後輩の大活躍する姿に新井氏はどこか満足気だった。だが、チームに戻ると、仰木監督の様子がいつもと違うことに気付いた。当時の西武はリーグ優勝を争うライバル球団。まさに“敵に塩を送った”新井氏に仰木監督は「お前、何やってくれたんだ。とんでもない選手を出してくれたな」と激怒していた。

「もともと素晴らしい才能を持っていた松井稼頭央だったので、これがブレークのきっかけになったとは思っていません。ですが、野村監督の要望に応えられたことは良かった。ただ、仰木監督はあの時は本気で怒ってましたね」

 温厚な仰木監督に激怒されたのは、この松井稼頭央の一件を含めて、2回だけだったという。もう1回は“右のイチロー”として大きな期待を込めていた谷佳知の打順を巡り、衝突した時だった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)