北朝鮮・朝鮮労働党の金正恩総書記と妻の李雪主氏が最近、家庭常備薬を感染症に冒された地域に送った。神に例えられる北朝鮮の最高指導者が、プライベートな行動を公表するのは極めて異例のことだ。ここにも独裁の揺らぎが見える。(牧野愛博)

6月16日付の労働新聞は、金正恩氏夫妻がソファに座り、薬を選んでいる写真を公開した。「自宅で準備した薬を黄海南道の海州市委員会に送った」と伝えた。同市で急性腸内性感染症が発生したことを受けたという。この報道を皮切りに、趙甬元党組織指導部担当書記ら正恩氏の側近たち、各地の党組織などが一斉に医薬品や食糧を海州市に送ったという。

北朝鮮で最高指導者のプライバシーを語ることは最大のタブーだとされる。過去、北朝鮮当局者にこの話題を振ると、みな表情がこわばった。北朝鮮関係筋によれば、この習慣は、北朝鮮が1967年に唯一領導(思想)体系を確立し、金日成主席(当時)の個人崇拝が始まってから定着したという。

家庭の常備薬を選ぶ趙甬元党組織指導部担当書記(左)。金正恩氏が常備薬を送った報道の翌日、労働新聞が伝えた家庭の常備薬を選ぶ北朝鮮の趙甬元党組織指導部担当書記(左)。金正恩氏が常備薬を送った報道の翌日、労働新聞が伝えた=同紙ホームページから

金日成はそれまでは、自らの私生活を語ることがあった。息子の金正日総書記は学生時代、教師に向かって「俺の父親は首相だから」と威張った。金日成が学校を訪れ、ひざまずいてお辞儀をする「クンジョル」をしながら「息子をよろしくお願いします」と頼んだ。金日成は「その後、息子の乱行が収まった」と側近に漏らし、側近たちも指導者の庶民性をアピールするために積極的に宣伝した。

ところが、個人崇拝が始まると、金正日総書記が父親の神格化を進め、側近たちは金日成の私生活を一切、外部に知らせなくなった。同筋は「北朝鮮当局は幹部たちに、神様の私生活をのぞいてはいけないと教育した」と語る。

金日成氏の後を継いだ金正日氏の場合、「そもそも、明らかにできるような私生活ではなかった」(同筋)という。北朝鮮当局は時折、自伝などの形で金正日氏の私生活を伝えた。「現地指導で疲れ果て、夜中に自宅に戻った」「粗末な食事を済ませ、再び仕事に戻った」といった内容だった。

党から送られた医薬品を受け取り、涙を流す黄海南道の市民朝鮮労働党から送られた医薬品を受け取り、涙を流す北朝鮮・黄海南道の市民=労働新聞ホームページから

ところが、金正日氏の私生活の実態は、公表されたものとはかけ離れたものだった。ロシアのプリコフスキー極東連邦管区大統領全権代表は2001年夏、列車でモスクワに向かう金正日総書記に1カ月近くにわたって随行した。プリコフスキー氏の証言によれば、金総書記は食事のたびに、フランスのボルドーやブルゴーニュのワインと15〜20種類の料理を楽しんでいた。

金正日氏は毎晩のように側近たちを集めて「酒パーティー」を開いた。元政府高官だった脱北者によれば、米朝首脳会談を主導した李容浩元外相の母親がある日、金日成に告発文を送ろうとした。「幹部たちが毎晩のように酒を飲み、女を抱いている」という内容だった。

国家安全保衛部(秘密警察、現国家保衛省)がこの動きをつかみ、大騒ぎになった。李容浩氏の父で金正日氏の秘書室長を務めていた李ミョンジェ氏が妻を射殺し、金正日氏から感謝されたという。

金正恩氏は父親のこうした乱れた生活に反感を抱いていたという。李雪主氏の姿がたびたび、メディアに公開されるのも、西欧型の指導者を目指しているからだとされる。日本政府のなかにも、今回の常備薬の提供について「親しみのある指導者像を演出する狙いがある」と分析する声が出ているという。

ただ、北朝鮮関係筋の1人は「地域でまん延する感染症に、家庭の常備薬を放出して何の意味があるのか」と語る。「数が全く足りず、提供に意味があるのか。そもそも、北朝鮮の市民の絶対的多数は常備薬など持っていない。むしろ、苦しい生活を強いられている自分たちの姿を比較し、最高指導者に反感を覚えるだろう」

家庭の常備薬が入ったとみられる箱を持つ金与正氏(右)。金正恩氏が常備薬を送った報道の翌日、労働新聞が伝えた家庭の常備薬が入ったとみられる箱を持つ金与正氏(右)。金正恩氏が常備薬を送った報道の翌日、労働新聞が伝えた=同紙ホームページから

北朝鮮では過去、感染症や自然災害など、想定していなかった突発事態が発生すると、幹部たちが「忠誠資金」を出して処理してきた。日米などは予備費や補正予算などで対応するが、北朝鮮にはそんな余裕がないからだ。幹部たちは外貨稼ぎや特権を利用した収賄などを通じ、常に「忠誠資金」を準備しておく。最高指導者の要請に従い、そのカネを使って医薬品や食糧などを購入してきた。

関係筋の1人は「忠誠資金が枯渇している可能性がある」と語る。金正恩氏は市場経済の一部導入や積極的な輸出政策を取り、北朝鮮経済は2016年ごろまで好調だった。17年以降は国連経済制裁の強化、自然災害の多発、新型コロナウイルスの拡大を防ぐための国境封鎖措置などが重なり、経済が低迷している。

また、韓国政府は、北朝鮮が危機に備え、約100万トンの備蓄米を保有していると推計している。実際、脱北した元韓国軍将校によれば、北朝鮮の全土には「2号倉庫」と呼ばれる、戦時の食糧備蓄庫がある。コメやみそ、しょうゆなど、6日分の食糧が保存されているという。北朝鮮は食糧事情が厳しくなると、こうした備蓄米を放出し、危機を乗り切ってきた。

ただ、金正恩氏は21年6月の会議で「食糧事情が緊張している」と説明。このときに備蓄米などを放出したとされる。北朝鮮では今年春の干ばつや新型コロナの影響による田植え作業の遅れなどで、厳しい食糧状況が続くとみられている。

「常備薬の提供」は、最高指導者のプライバシーの切り売りにまで手をつけた北朝鮮上層部の苦しい現状を映し出しているのかもしれない。