この年入団した高校生に与えらえた背番号は立川が「52」、大塚が「65」、小野が「63」と全員大きな番号だったが、7位の福浦に与えられた背番号は「70」。文字通り支配下登録選手枠70名の最後、という扱いだった。
「自分がその年のドラフトの最下位指名だということは、特に気になりませんでした。それよりも“プロ野球選手になれた”という喜びの方が大きかったですからね。ただ、背番号の70番はやっぱり重かったですよ。当時は今みたいに背番号3ケタの育成選手もいないし、選手なら60番台が最後。それが70番台だから、試合でも『オマエ、コーチかよ!』ってよく野次られました(笑)。
 ただ、他球団に指名された同級生を見ると自分との力の差はやっぱり感じましたからね。甲子園に出ていた育英の大村(直之/近鉄3位)や宇和島東の平井(正史/オリックス1位)、大宮東の平尾(博嗣/阪神2位)、PLの松井稼頭央(西武3位)。それと、2位で指名された立川は、彼らが甲子園で準優勝した2年生の時に夏の千葉県予選で対戦しているんです。その時、僕が守っていたライトを越える物凄いホームランを打たれたんですけど…体はごついし、打球は凄いし、もう、バケモノだと思いましたよ」

入団交渉にあたり、福浦は担当の伊達泰司スカウトに「左ピッチャーは数が少ないから、すぐにではなくても出番は必ず来る。3−4年後、1軍で投げられるように、下でしっかり土台を作ってくれ」という言葉を貰い、しっかりと胸に刻んだ。
「だから地道に努力を続けていけば、数年後には必ず1軍で投げられる日が来る。マリンのマウンドに上がって『一番下から這い上がって来たぞ!』と言えるように頑張らなきゃならない。そう信じていたんですけど……現実はそんなに甘くなかったですね」

◎遅かれ早かれ「×」の選手だった

1994年。千葉ロッテマリーンズに入団した福浦は、いきなり肩の故障に悩まされ、ファームでも投球練習がほとんどできない状態に陥っていた。

 そんなプロ1年目のシーズンが開幕した直後の練習日。午前の練習が終わったランチ休憩の際に、福浦は同期のドラフト6位小野晋吾と共に、当時2軍打撃コーチを務めていた山本功児にグラウンドへ呼び出される。
 誰もいないグラウンドに行った福浦と小野は、山本に「打ってみろ」と、強制的にバッティングケージに入れられ、マシンを相手にフリーバッティングをやらされた。
 結果的にこれが運命の分かれ道となる。快打を連発する福浦の打撃に、傍らで見守っていた打撃コーチのハートは見事に射抜かれてしまう。

当時の高揚した思いを、山本功児は回想する。
「入団当時の福浦は体も細くて弱々しく、練習も満足にできない状態だったんです。ただ、バッティングがいいという噂を聞いていたので、一度見てみたいと、打たせてみたんですけど……素晴らしかった。シャープなスイングで鋭い打球が浦和球場のライトのネットにバンバン当たる。あの当時からバッティングセンスは天才的なものを持っていました」

ケージから出てきた福浦に山本は告げる。
「おまえ、今すぐにバッターへ転向しろ」
 しかし、山本にとってダイヤモンドの原石を見つけたような興奮は、福浦にとっては突然の投手失格宣告を受けたようなものだった。
「ビックリですよ。入団交渉の時に打者転向の話なんて何も出ていないのに、まだ開幕して間もない時期に『バッターになれ』ですからね(笑)。これがドラフト下位指名の現実なのかもしれないですけど、僕もピッチャーにこだわりがありましたから、簡単に呑めるわけもなく『1年間はピッチャーとしてやらせてください』と断ったんですけどね……」

福浦はその後も投手を続けたが、山本功児は諦めなかった。その後も福浦と顔を合わせる度に『なんだ、お前まだピッチャーやってるのか?』、『早くバッターになれ』と執拗に迫っていく。
 山本は必死だった。
「僕らコーチはシーズン終盤になるとクビを切る選手に×印をつけて監督に提出するんです。それを2軍監督が判断して来季の契約が決まるんですけど、当時の福浦はピッチャーのままだったら遅かれ早かれ×の選手でした。それならば早くバッターで勝負させたいという思いはありました」
 7月のオールスター前。福浦は2軍監督の醍醐猛夫に監督室に呼ばれ、正式に転向を打診される。
「結局、オールスター明けにはバッターになっていましたね。バッティングに自信がないわけじゃなかったですし、好きは好きでしたけど…でもやっぱりピッチャーとして投げたかったですね。それでも転向を決断した理由は……うーん、なんだったんですかね。ある意味で、山本さんに無理やりという感じじゃないですか(笑)」

◎「裏方のドラフト1位」を悟った4年目

投手として入団しながらも、1年も待たずに半ば強制的に打者に転向させられた福浦は、打者としてプロの世界で生きていくことになる。