トップ画像は原爆ドーム

 

 

真珠湾攻撃から80年、その時広島では旧広島市民球場跡地で「対米英宣戦必勝広島国民大会」も暗転、大和撃沈、原爆投下、カープ誕生…そして2022年1月平和の軸線で新サッカースタジアム着工…

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2021年12月7日、厳島神社と原爆ドームが世界文化遺産に登録されて25年を迎えました。原爆ドームから歩いて10分たらずの場所に広島県民や全国のサポーターも注目する新サッカースタジアムが建設される準備が今、進められています。

 

 

2022年、その年明けにはサッカースタジアムの本格的な建設が始まります。広島の新たな舞台装置、そのコンセプトは「スポーツと平和」です。大正時代と昭和初期、軍都広島は海軍の街、呉市とともにスポーツ王国と呼ばれました。そして戦後も、カープ球団の誕生や1951年1月の広島国体開催などスポーツの力を足掛かりにして復興への道を歩んだのです。

 

 

きょう2021年12月8日から遡ること80年、1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍機動部隊による真珠湾奇襲攻撃が始まりました。なお、真珠湾攻撃の1時間5分前には、陸軍がマレー半島の英国領コタバル上陸作戦を開始しています。

 

 

なぜ日本は戦争を始めたのか?国民への説明は「自衛のため」でした。当時のメディア(新聞、ラジオ)で国民はそう“知らされ”ました。その前年、1940年9月27日に日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟が締結され、結果、日本国民は第二次世界大戦に“突撃”することになったのです。

 

 

真珠湾攻撃前日の1941年12月7日、広島市内では一大イベントが始まっていました。

 

 

広島県の「皇紀2600年記念事業」として進められていた野球場、庭球場、相撲場、弓道場もある施設群「総合体錬場」完工式(12月7日)と記念の体育大会(8日、9日)です。現在の「Balcom BMW広島総合グランド」(広島市西区観音)の戦前の姿です。(戦後は広島市民球場完成までカープの本拠地となり、Jリーグ誕生時にはサンフレッチェ広島のホームゲームが開催されたのもこの空間です)

 

皇紀2600年記念事業とは、日中戦争下の1940年(昭和15年)、初代天皇神武天皇が紀元前660年に即位したという古事記解釈をもとに、紀元2600年を記念して国内で行われた行事や事業を言います。戦時下とはいえまだ国民生活に余力がありました。

 

 

「総合体錬場」完成記念行事の体育祭2日目、修道中学(現修道高校)と広島一中(現国泰寺高校)の対戦の最中に、ラジオスピーカーが日本の米英に対する宣戦布告を告げました。広島のマチナカでちょうど80年前にあった現実の話です。今、もし同じようにマチナカで野球やサッカー観戦している最中「日本は自国防衛のため、南シナ海において米国、豪州とともに相手国のミサイル攻撃に対して…」などという「臨時ニュース」が流れたら、どうでしょう?

 

 

80年前の広島では、軍艦マーチとともに「帝国陸海軍は本8日、西太平洋において米英両軍と戦闘状態に入れり」のアナウンスが繰り返され、会場は異様な空気に包まれた、と関係資料には記してあります。また「太平洋戦争突入の報を聞きバンザイした」と書かれている資料もあります。

 

 

真珠湾攻撃から2日後の12月10日、広島護国神社(当時は旧広島市民球場跡地西隣、被爆後、広島城址公園内に移設)の広場では「対米英宣戦必勝広島国民大会」が開催され7万人も集まりました。この”群衆”はいったいどんな気持ちだったのでしょうか…。全てはその3年8カ月後の1945年8月6日に灰と瓦礫と化し、屍の街になってしまうのに…

 

 

1941年12月8日、日本が後戻りできない一歩を踏み出すその1日前の12月7日、「観音のグラウンド」で「総合体錬場」完工式が開催された日。山口県と大分県に挟まれた周防灘では初の「主砲射撃」が行われました。そう、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦、大和(やまと)です。

 

 

大和は呉海軍工廠で1937年11月に建造が始まり、秘密裏のうちに1941年12月16日に就役しました。そして1945年4月7日14時23分 、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没。死者2740名、生存者269名。

 

 

大和が海の藻屑と消えてから23日目の1945年4月30日、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが地下壕の一室で夫人のエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺しました。5月7日、ドイツは西側の連合国軍に降伏、続いて5月9日にソ連に降伏しました。ふたつの「降伏」はベルリンの壁へと繋がりました。

 

 

ドイツ降伏のあと、1945年7月2日、ドイツ郊外のポツダムに米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長と数名の重役たちが集まりました。第二次世界大戦の戦後処理について話し合われ、そして1945年7月26日、日本への降伏要求の最終宣言とも言えるポツダム宣言が出されました。広島と長崎に原子爆弾が投下されるまで“まだ”10日以上ありました。話し合いは8月2日に終わりました。

 

 

この会談は厳しい話し合いになることが予想されたため、”場所決め”には細心の注意が払われたと言います。その結果、ホーエンツォレルン家最後の王子ヴィルヘルム・フォン・プロイセンが家族と住んでいた宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿が選ばれました。

 

広島の平和記念館や原爆ドームを世界中の人が訪れるように、ツェツィーリエンホーフ宮殿の建物と庭園は1990年にユネスコ世界遺産に登録され「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」のひとつになっています。

 

 

内部もそのまま保存されているため、当時の3者会談の会話の様子まで想像できます。

 

 

逆に「想像力」ゼロだったのが、まさにポツダム会談が開かれていた時の日本国内だった、と言えるのではないでしょうか。「本土決戦」に備えて、当時の鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言を“黙殺”。広島は8月6日を迎えることになりました。

 

 

原爆投下後のキノコ雲は呉海軍工廠からも確認できました。学徒勤労動員で広島市内から通っていた中等学校の生徒が尋ねました。

 

 

「兵隊さん、あれは何ですありますか?広島で新爆弾の実験…」

 

 

「知らん、ワシには分からん」

 

 

呉海軍工廠の学徒動員生はほどなく「にぎりめし」をもらって解散になりました。しかし、呉から広島に向けて乗った列車は一向に動きません。ぎゅうぎゅう詰めの車内は蒸し風呂のようになって「にぎりめし」は台無しに…

 

 

ツェツィーリエンホーフ宮殿の内部は有料で見学できますが、その順路の最後で見学者を待っているのはやはりキノコ雲の写真と、

THE FINAL ACT

END OF THE PACIFIC WAR

の文字です。

 

 

太平洋戦争の最後の「THE FINAL ACT」をキノコ雲という形でしか残すことのできなかった人類に対して、広島は何を伝えるべきか?

 

広島平和祈念資料館、原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを結んで北へ伸びる平和の軸線のすぐ西隣に、2024年春完成を目指す広島の新サッカースタジアムには、人類の選択すべき「THE FINAL ACT」を提示し続ける、崇高な使命が託されることになるでしょう。(広島スポーツ100年取材班&田辺一球)

※この記事は福山平成大学、広島スポーツ学から一部引用しています。