東京五輪パラリンピックの成功を見据えて、安倍晋三首相(62)は今年1月の施政方針演説で、受動喫煙対策の徹底を約束した。だが、厚労省が禁煙の強化策を盛り込んだ健康増進法改正案は、今国会で提出できず。分煙という代案を掲げて猛反発する自民党のたばこ議員連盟によって阻止された形だ。同省は今秋の国会に法案提出を狙うが、難航は必至。厚労省と自民党のバトルが続けば、五輪までに対策が間に合わなくなる恐れもある。(甲斐毅彦、樋口智城)

 スポーツバーや居酒屋で酒を飲み、たばこを吸いながら五輪選手を応援する―。そんなスタイルが消えるのか、大激論になっている。

 国際オリンピック委員会(IOC)は1988年のソウル五輪以降、「たばこのない五輪」を推進。2008年の北京五輪から全ての開催国が罰則を伴う法規制を実施している。日本の現行の健康増進法は罰則のない努力義務にとどまるため、政府は五輪に向け、本格的な法整備に着手した。

 バーやスナックなど小規模飲食店以外は原則「屋内禁煙」とする厚労省案が2月に判明すると、約280人の議員からなる自民党たばこ議員連盟(会長・野田毅党税制調査会最高顧問)が猛反発。同議連は「多くの飲食店がやっていけなくなる」と規制を骨抜きにする独自案を3月に公表した。

 さらに、厚労省案に反対の諸団体が、116万7164人分(4月25日公表)の署名を提出。賛成派署名の3万6434人分の約32倍の数字。禁煙運動歴40年の「禁煙ジャーナル」編集長・渡辺文学さん(79)は「成人の喫煙率が2割を切っている現状を反映していない。組織力を使ったんでしょうが…」と振り返る。

 世界保健機関(WHO)関係者が4月に来日し、日本の受動喫煙対策を「前世紀並み」と批判。禁煙学会も反対派の数を上回る署名を集めて政府を後押しした。だが、法改正を目指す塩崎恭久厚労相(66)と自民党の対立は続き、今国会の法案提出は断念に追い込まれた。

 「東京オリンピック・パラリンピックに向けて受動喫煙防止法を実現する議員連盟」の呼び掛け人、松沢成文参院議員(59)は「批准しているWHOたばこ規制枠組条約の方針を守っていない先進国は日本ぐらい。五輪へ向けて速やかに国際基準の規制をすべき」と指摘する。

 しかし松沢氏は、秋に内閣改造が行われ、塩崎厚労相が外れれば禁煙対策が大きく後退すると危惧している。

 ただ、世界各国の五輪開催都市の受動喫煙防止法や条例は、実は屋内のみの適用。科学的な調査が難しい屋外については手つかずの状況だ。政府案より緩やかな分煙を提唱している全国生活衛生同業組合中央会の伊東明彦事務局長(60)は「屋外の方が、不特定の人に迷惑はかかりやすい。そう考えると、実は日本の方が分煙意識は高い」と断言。「屋内にも規制をかければ、喫煙者は吸う場所がなくなってしまう」と話す。

 法案は秋に想定される臨時国会へ先送りされるが、妥協できるかは煙の中。厚労省は法案の周知に約2年かかるとみており、これ以上対策が遅れれば19年ラグビーW杯だけでなく、五輪も「対策なし」で迎える恐れが出ている。

 ◆ムツゴロウさん「暮らしの一部をどんどん奪われている」愛煙家の主張

 五輪をきっかけとした禁煙化への動きに、愛煙家文化人が不満を爆発させた。

 喫煙歴60年、筋金入りのヘビースモーカーのムツゴロウさんこと作家・畑正憲さん(82)は「五輪という錦の御旗を立てて、(喫煙する)ぼくらを迫害するのは勘弁してほしい」と、法律的に問題のない喫煙の権利が阻害されていることを嘆く。さらに「昔は野球もよく見てたし、渋谷で若手歌舞伎とか毎日鑑賞していたけど、みんな禁煙になって今は全然行けない。暮らしの一部をどんどん奪われている」と怒り心頭。「東京で吸えないなら、もう住まないよ」と宣言した。

 そんなムツゴロウさんにも夢ができた。「五輪に選手として出たいと思っているの」。驚きの発言。そのココロは?と聞くと「マラソンのスタート地点でたばこをふかすの。そんで、くわえたばこして走る」との答えが返ってきた。

 一方、漫画家の黒鉄ヒロシさん(71)は「そもそもWHOは確固たる根拠に乏しい『たばこは体に悪い』という論理を守るためにだけに主張している。この前『禁煙が遅れている日本は野蛮だ』とか言ったらしいけど、自分の論理を守るために非難する方が野蛮だよ」と持論を展開。

 それでも、時代の変化はヒシヒシと感じている。「流れはもう禁煙ってなってるから、泣き寝入りしかない。たばこがダメなら出歩かないだけ。仕事場で好きなだけ吸うよ」と嘆き節を連発させていた。

 ◆「二度と来ない」はずの客戻った…禁煙店の実感

 厚労省案でも喫煙可とされる30平方メートル以下のバーでも、30年以上前から禁煙の店が新宿ゴールデン街にある。1976年に開店した「洗濯船」が店内禁煙を決めたのは、バブル絶頂期の86年。きっかけは、毎日紫煙に包まれる中で、胸に痛みを感じ始めた店主の吉成由貴子さん(68)が、同業者が喉頭がんで亡くなったことを知り「このままでは死ぬ」と感じたことだった。

 突然、店の前に貼られた「禁煙」の貼り紙を見た常連客たちは怒り出した。「もう二度と来ない」とキープしていたボトルを目の前で逆さまにして捨てる客もいた。ゴールデン街でも非難の声が上がった。吉成さんは「健康を守るためと説明しても分かってくれない。毎日けんかで、トイレに入って泣いていました」と振り返る。

 客は一時期、半分以下に減り、待てど暮らせど誰も来ない日も。だが、理解をしてくれるヘビースモーカーが徐々に出てきた。「たばこを吸わないで酒を飲むって初めてだよ。面白いじゃない。やってみようよ」。そして「二度と来ない」と言った客が、人を連れてきてくれた。徐々に客足は戻った。昨年開いた開店40周年記念パーティーには当時、けんかした人も駆けつけてくれたという。

 ゴールデン街が外国のガイドブックに載るようになり、外国人の飛び込み客も増えた。入店後に「禁煙」に気づいた欧米からの来客は「Good!」と親指を立てる。

 ◆受動喫煙 たばこの煙にはニコチンなどの有害な化学物質が含まれる。他人の出すたばこの煙を吸い込む受動喫煙でも肺がんや心筋梗塞、脳卒中、乳幼児突然死症候群などのリスクが高まる。受動喫煙の影響による国内の死者は年間1万5000人に上ると推計(厚労省)される。現行の健康増進法は、病院や官公庁施設、飲食店など人が集まる施設の管理者に受動喫煙防止の対策を取るよう求めているが、罰則のない努力義務にとどまる。世界保健機関(WHO)は日本の対策を4段階評価の最低に位置付けている。