前回JRのトラブルのため断念せざるを得なかった大峯山(おおみねやま 1050メートル)。広島市内の最高峰にして二つのピークを持つように見える特徴的な山容が目をひき、山頂からは西中国山地一帯から瀬戸内海まで見渡せる人気の名山だ。稜線にはブナの巨木があることでも知られている。マイカーがあれば広島市中心部から登山口の駐車場まで1時間ほどなのだが、公共交通機関利用の場合は最寄りのバス停から約4キロの車道歩きが必要で、登り始めるまでのハードルはなかなか高い。梅雨入り前の好天の週末、リベンジ登山に向かった。

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ

行き)
① JR山陽線(おとな片道240円)/横川(7:04)→宮内串戸(7:20)
② 広電バス佐伯線(おとな片道380円)/宮内串戸駅(7:32)→玖島分れ(7:55)
③ 佐伯さくらバス(おとな片道150円)/玖島分れ(8:13)→玖島(8:20)
帰り)
① 広電バス佐伯線(おとな片道380円)/玖島分れ(15:43)→宮内串戸駅(16:07)
② JR山陽線(おとな片道240円)/宮内串戸16:10)→横川(16:26)

 

大峯山か大峰山か

登山口へはJR宮内串戸駅から広電バス、佐伯さくらバスを乗り継いでいく。廿日市市には自治体が自主運行する「廿日市さくらバス」、「佐伯さくらバス」、「吉和さくらバス」、「おおのハートバス」の4つのコミュニティバスがあり、登山では何度もお世話になっている。ただ、中山間地域をエリアにしている「さくらバス」は運行本数が少ないため、プランニングの選択肢は限られる。今回は玖島までがバスで行ける限界だ。
下川上の登山口まではバス停から3.8キロ。登山口方面のバス便もあるのだが、早朝7時台の1便のみで日曜日は運休なので、利用は不可。県道294号を西に向かって歩く。さすが人気の山、スタート地点の信号上に「←大峰山」の標識、5分ほど歩くと道路沿いに「大峰山 登山道入口」の看板が立っている。山名は「大峯山」が一般的なのだが、なぜか道路標識は「大峰山」の表記が多い。異体字の使用を避けたのだろうか。

県道294号沿いにある大峯山登山口への案内板(表記は大峰山になっている)

上り勾配の県道は歩道のない区間が多いが、通過交通は少ないのでわりと歩きやすい。吉末を過ぎ、麓の下川上の集落に入ると大峯山の堂々たる山体が眼前に広がる。山頂の東側は切れ落ちた岩壁も見て取れ、登頂意欲をかきたてられる。広島藩の地誌「芸藩通志」には「高峰大麓、近方に比なし、山頂老樹怪岩あり」と記されている。

下川上集落から見た大峯山

1000メートルまで続く急登

下川上の集落を過ぎてほどなく「大峰山登山口」の立派な木製看板が現れるが、ここは登山口ではない。70メートルほど先の駐車場がスタートだ。ここからしばらくは別荘地エリアの舗装道路を上る。結構な傾斜を直登するため半端なくきつい。息を切らしながら歩くこと10分、登山道の入り口となる貯水槽に着いた。

下川上登山口の駐車場 別荘地エリア最上部にある貯水槽が登山道のスタート

ここからは杉林の中の山道だ。7〜8分ほどで2合目の標識があり、右手に直角に曲がると一気に急登になる。これからひたすら急登が続くのだ。針葉樹林の中の風景は単調で気分も上がらない。ヒノキ林の中の5合目を過ぎ、標高880メートル付近から右側は明るい広葉樹の森になる。傾斜は相変わらず急だが、少し気持ちが明るくなる。でもきつい。着実に一歩ずつ歩を進める。
標高1000メートルを過ぎるとようやく緩やかな道に変わった。貯水槽の標高が500メートルくらいだから、標高差にして500メートルも急登が続いていたことになる。

登り始めて10分弱で2合目 さらに20分歩いて5合目に 針葉樹林の中、ひたすら急登が続く 標高950メートル付近から明るい広葉樹の森になる

疲れ吹き飛ぶ絶景の山頂

頂上はすぐそこだ。10分ほど歩くと巨岩が連なる山頂に着いた。はしごを上ったところが最高地点。「大峯山山頂 1050m」と刻まれた立派な看板が東側に、西側には「廿日市20名山 大峰山」と「大峯山」の2つのプレート。ここでも2種類の表記が混在だ。頂上の岩峰には先着の登山者が数組。みなさん記念写真撮影に余念がない。少し下で順番を待ち、岩上にあがった。

稜線上から山頂の岩場が見えた にぎわう山頂 大峯山頂からのパノラマ写真

360度のすばらしい眺望だ。遠方は少し霞んでいるものの、雲一つない晴天に恵まれていうことはない。東方面は大野権現山(699.1メートル)から船倉山(545.6メートル)、高見山(559メートル)へと連なるご当地アルプスの一つ、通称「廿日市中央アルプス」(いつか紹介します)の山並み越しに厳島、能美島、江田島、似島など広島湾の島々が広がる。前回登った極楽寺山(693メートル)も眼下だ。北東方向には東郷山(977.1メートル)が鋭角の山容を見せる。南に目を転じれば、三本槍こと三倉岳(701.6メートル)、西から北にかけて羅漢山(1108.9メートル)、吉和冠山(1338.9メートル)、十方山(1318.8メートル)など西中国山地の山々が続いている。急登の疲れも忘れる絶景だ。飽きない景色だが、次の登山者も登ってくるので10分ほどで最高点を明け渡した。

大峯山山頂

もう一つの絶景ポイント

実は山頂の岩稜にも負けない絶景を楽しめる場所がある。「回り縁」(回り岩とも言うらしい)だ。登ってきた道を少し戻ると左手(山頂から下ると右手)に分岐する道があり、木製の標識に小さく「回り縁」と書かれている。山頂の岩稜の北側を巻くような道をたどるとコンクリート製のあずまやのような建物があり、さらに進むとテラスのようになった岩の上に出た。下川上の集落から見上げた時に切れ落ちた岩壁が見えたところだ。岩の下をのぞき込んでみると、百メートルはあろうかという崖になっている。高度感は抜群だ。安全を考えて岩の中央付近まで後退して腰を下ろす。見える範囲は北東から南西にかけての180度だが、ほかの登山者も来なかったので、30分ほど「特等席」を独占して昼食を楽しんだ。回り縁へは山頂のすぐ下から近道になる縄梯子が設置されているが、破損している個所もあったのであまりお勧めはしない。

コンクリート製のあずまや(?)避難所かも 小道の先の岩場が回り縁 回り縁の端から下をのぞき込む。写真ではわかりにくいが100メートル以上の高度差がありそう 回り縁の岩上から東方を見る

ブナの巨木と熊棚?

これから西大峯山(1009.7メートル)、オオネントウ(877.9メートル)を縦走して下川上の登山口に戻るのだが、その前にどうしても会っておきたかったのが「峯太郎ブナ」だ。大峯山は県内のブナの自生地の南限とされる。西大峯山に向かう標高990メートル付近、登山道から少し左に入ったところに巨木はたたずんでいた。ふた抱え以上はあろうかという幹回り、10本以上に分かれた太い枝。千メートル級の厳しい環境で長い歳月を重ねてきた樹木の生命力を感じる。その場では気が付かなかったのだが、後で動画を見直してみると、幹が枝分かれしているところに鳥の巣のように木の枝が積み重なっていた。調べてみたのだが、もしかしたら熊棚(くまたな)だったのかもしれない。

ツキノワグマは秋に木に登ってドングリやブナの実を食べて冬に備える。クマは枝先までは移動することができないため、樹上で実のついた枝を手元にたぐり寄せて、枝先の果実を食べる。その際に折れた枝が木の上に残り、積み重なって鳥の巣のようになるのだそうだ。クマのお食事処の跡といってもいいかもしれない。実は2年前の秋にも大峯山に登り、西大峯山に縦走している際、突然頭上で「バキバキ」と枝の折れる音がして数メートル先に黒いものが落ちてきたことがある。ツキノワグマだった。一瞬目があったが、当方が固まっているうちに向こうが逃げてくれたので事なきを得た。思えば樹上で食事中だったクマを驚かせてしまったのかもしれない。

西大峯山への縦走路の途中に立つ峯太郎ブナ 堂々たる枝ぶり

長いロード歩きで消耗

熊鈴を盛大に鳴らしながら二つのピークをたどる。それにしてもオオネントウとは不思議な山名だ。由来を知りたいと思ったが、角川日本地名大辞典にも載っていない。北海道の雌阿寒岳の麓にオンネトーというよく似た名前の湖があるが、関係があるのかもないのかもわからない。

西大峯山の山頂から吉和冠山を遠望する オオネントウ山頂。眺望はなし 西大峯山登山口に備えられた杖

上川上集落から下川上登山口を経て再びロードを歩いて(下り勾配なので行きよりはかなり楽)玖島に着いたのは14時20分。次の佐伯さくらバスは17時35分。3時間以上も待つくらいなら1時間かけて広電バスの停留所がある玖島分れまで歩いたほうがいい。さらに4キロのロード歩きを追加した。最後のロードとなった玖島〜玖島分れ間の県道は交通量が多く、気温も上がっていたのでかなり体力を消耗した。下川上登山口から大峯山頂を往復するだけなら13時のバスに間に合ったかもしれないが、今回は行ったことのないオオネントウを通る周回ルートを選んだので致し方ない。総歩行距離は約20キロだった。

《メモ》
玖島のバス停から大峯山登山口に向かって歩いていると、吉末の集落に入ったところで右手の吉末川の川岸に「作家 大田洋子の墓」と大きな文字で刻まれた墓石が見える。道路から川越しに見ても読める。
原民喜「夏の花」などと並んで原爆文学の代表作のひとつに数えられる大田洋子(1903〜63)の「屍の街(しかばねのまち)」は玖島で書かれた小説だ。原爆投下時に白島九軒町の母親の家にいた大田は、被爆後数日間を母親らと河原で過ごした後、幼少期に暮らした玖島村(当時)に逃れた。作中で大田は悲惨な遺体を記憶にとどめようと凝視し、とがめる妹に対し「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」「いつかは書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」と語っている。
序文には「私は一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺(ず)って行かれるかわからぬ瞬間を生きて、『屍の街』を書いた」とあり、生き残った被爆者が原爆症で次々と死んでいく中で、「人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くことも急がなくてはならなかった」と述懐している。
墓があるのは親族の墓所の一角で、別の場所から移されたのだという。
「屍の街」は、講談社文芸文庫から刊行されているほか、「セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ」(集英社文庫)にも収録されている。

玖島で「屍の街」を書き上げた作家大田洋子の墓

 

20226.4(土)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
還暦。50代後半になってから本格的に山登りを始めて4年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラム「バスと電車と足で行くひろしま山日記」