このところ週末に仕事が入ることが多い。この日曜日も仕事だったが、午前中限定で時間ができた。11時前に帰ってこられて、物語のある山を探したところ、あった。古代史に名を残す貴重な遺物が出土した木ノ宗山(412.7メートル)だ。かなりタイトなスケジュールになることを覚悟で行ってみた。

(*山名の表記には「木の宗山」としている例もありますが、本文では国土地理院地図に従い「木ノ宗山」としました)

 

銅鐸・銅剣・銅戈が同時に発見された巨石遺跡

 

▼今回利用した交通機関 *時刻は休日ダイヤ

行き)JR可部線・芸備線(おとな片道420円)/横川(6:41)→(6:47)広島(6:57)→(7:41)上深川

帰り)広島バス(おとな片道420円)/大平(9:49)→(10:23)広島駅新幹線口
JR可部線(おとな片道150円)広島(10:28)→(10:31)新白島

 

 

夜明け時間と相談してプランニング

できるだけ早く上り始めて行動時間を稼ぎたいところだが、冬至(12月22日)に向かって日が短くなっていく時期だけに、暗い時間帯の登山は避けたい。スタートのJR芸備線上深川駅に最も早く着く列車は午前6時10分。日の出は午前7時なので、この時間は真っ暗と思われるので断念。日の出後に着く列車は午前7時41分(休日は本数が少ない)。帰りの広島バス深川線の大平停留所発10時1分のバスには乗りたいので行動時間は2時間20分。標高差約400メートル、歩行距離4キロ強はかなりタイトなスケジュールだが、頑張ってみよう。

 

いきなり急登、古城跡への道

広島駅から午前6時57分発の三次行き普通列車に乗車。6両編成だが、後ろ4両は途中の下深川駅で切り離されてしまうので先頭車両に乗り込む。切り離し作業に16分ほどかかった。上深川駅から登山口までは15分ほどのロード歩き。小雨がぱらついていたが、ほどなく上がった。三篠川を渡ると、住宅街の中に「木の宗山ここから80分」の看板が立っていた。

 

下深川駅で列車を切り離すJRの乗務員

 

実際の登山口までは川の左岸をしばらく歩くのだが、災害復旧工事が実施されていることもあって道がわかりにくい。地面にところどころ張られたロープと看板を頼りに進む。竹藪のなかを右に曲がり、さらに左に曲がると登山口だ。

 

竹林の中を右に向かう

 

いきなり急登が始まった。まだ体が目覚めていないのでなかなかきつい。20分ほど我慢して上ると尾根に出て歩きやすい緩やかな道になる。ほとんど樹林の中の道だが、標高310メートル付近に東側の視界が開ける展望ポイントがあり、ここで一息入れる。

 

上り始めは急登が続く

 

尾根に出ると歩きやすい道になる

 

展望ポイントから福田地区と山陽自動車道を見下ろす

 

山頂が近付くと、登山道沿いに岩が目立つようになる。戦国時代には頂上周辺に木ノ宗山城が築かれていた。城郭跡と思われる石積みも残っている。築城者は吉川興経(毛利元就の次男・元春が吉川家に養子に入った時の当主)とも奥西仲綱ともいわれるが、はっきりしないようだ。なお、上深川には吉川興経の居館跡と墓所がある。

 

山頂が近付くと岩が目立つようになる

 

山城の郭跡と見られる石積み

 

眺望抜群の山頂から急坂の下山路へ

午前8時55分、登頂。一部樹木に遮られているところもあるが、独立峰だけに眺望は抜群だ。北に白木山(https://hread.home-tv.co.jp/post-130985/)、南に二ヶ城山(482.8メートル)、その向こうに広島南アルプス㊤(https://hread.home-tv.co.jp/post-143882/)で紹介した武田山から大茶臼山に連なる山並み、眼下に福田、温品の街並みが広がり、海田湾まで望めた。

 

木ノ宗山の山頂広場

 

西側の眺め

 

南方を望む

 

いつもならゆっくり休憩するところだが、なにせ時間がない。10分足らずで下山にかかった。

山頂からの下山路が半端ない急坂だ。標高差130メートルほどを足元に気を付けながら下った。15分ほどで標高約270メートルのフラットな場所に出た。直進すれば三田ヶ峠を経て二ヶ城山、さらに蝦蟇ヶ峠を経由して松笠山からJR戸坂駅に通じる総延長約13キロの縦走路だが、時間制限のある本日は福田方面へ下山する。

 

地名を冠した銅鐸発見の地

分岐の標識には「広島県史跡 木の宗山 銅鐸銅剣出土地」とある。そう、この下に歴史的価値のある青銅器が発見された場所があるのだ。

 

青銅器が出土した遺跡への分岐(標高約270メートル)

 

分岐から木ノ宗山の山頂を振り返る

 

麓の福田地区には、「この山に宝物がある」という言い伝えがあり,1891(明治24)年に地元の人が中腹の大石の前の直下を掘ったところ,銅鐸(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-102060010.html)・銅剣・銅戈(どうか)が出土した。

 

銅鐸、銅剣、銅戈が出土した烏帽子岩

 

銅鐸と銅剣・銅戈が一緒に出土する例は珍しく、出土物は国の重要文化財に指定されている。特に銅鐸は上部に病や災いをはらうためとみられる奇怪な目の文様である「邪視文」があった。木ノ宗山から見つかった銅鐸は、邪視文をもつ銅鐸の最初の出土例だったことから、福田型銅鐸とも呼ばれている。

 

福田型銅鐸の文様。上部に邪視文がある。引用:国立歴史民俗博物館編 「歴博フォーラム 銅鐸の絵を読み解く」(小学館 1997)

 

一定年齢以上の人なら、弥生時代に近畿を中心とした発掘例が多い「銅鐸文化圏」と、九州を中心にした「銅戈銅剣文化圏」が成立していたと習った記憶があるかもしれない。これは、哲学者の和辻(わつじ)哲郎(1889-1960)が、出土例の分布を基に対立する政治圏があったと見る解釈だった。木ノ宗山の出土例は両文化圏の接点ともいわれていた。その後、九州でも銅鐸の鋳型や銅鐸が相次いで発見され、弥生時代の青銅器文化圏の考えは大幅に見直されたが、木ノ宗山の遺跡と遺物が貴重なものである事実は変わらないだろう。

 

里を見下ろす巨石

下ること10分弱で標高約200メートルの出土地に着いた。高さ3メートルほどの烏帽子岩とよばれる巨石が福田地区を見下ろすように立っており、脇に説明板が設置されている。この岩の足元から青銅器が発掘されたのだ。祭祀に使う道具を集落から見える聖地に意図的に埋納されたのか、習俗の変化により保管されたまま忘れ去られてしまったのかはわからない。

 

岩には「木宗山銅鐸銅剣出土地」と刻まれていた

 

遺跡に立つ説明板

 

下山してバス停に向かう途中で振り返ると、青銅器が発見された巨石が白く輝いて見えた。福田地区に暮らしていた弥生人たちは、巨石を仰ぎ見ながら五穀豊穣や安全な暮らしを祈っていたのだろうか。そんなことを考えながら帰途についた。

 

福田地区から見上げた木ノ宗山。左下の山の中腹に見える白い岩が青銅器の出土地

 

麓から見た銅鐸・銅剣・銅戈の出土地(中腹の白い岩)

 

2023.12.4(日)取材 《掲載されている情報は取材当時の内容です。ご了承ください》

ライター えむ
50代後半になってから本格的に山登りを始めて5年ほど、中四国の低山を中心に日帰りの山歩きを楽しんでいます。できるだけ公共交通機関を利用しますが、やむを得ない場合に時々レンタカーを使うことも。安全のためトレッキングポールは必ず携行。年齢のわりに歩くのは速い方です。
■連載コラム「バスと電車と足で行くひろしま山日記」