客足もまばらで、つぶれかけていた場末の鮨屋(すしや)「蒲田 初音鮨(かまた はつねずし)」。それが突然、“世界中から予約が入る名店”として名を馳はせるようになった背景には何があったのか?

 「5年後の生存率は、10%以下」――当初は「銀座の名店に負けたくない」とばかり、競争・闘争の世界にいた鮨屋のオヤジが、妻の余命宣告と闘病をきっかけに、店を大きくする野望を捨て、利益もこだわりも全て捨てて、ただ妻とお客のためだけに鮨を握りはじめた時――。これはある鮨屋夫婦に起きた小さな奇跡の物語。

 第1章の前編・後編に続いて、2章の前編をお届けします。

●街の発展とともに出足順調

 そもそも勝(かつ)が継いだ蒲田 初音鮨、元から一流店だったわけではない。いや、「絶対に一流店にしてやる」と息巻いていた、店を継いだ当時の勝を見た多くの者は、「思いとどまれ」と言いつつ、陰で笑っていたに違いない。

 明治から続く老舗の蒲田 初音鮨ではあるが、その未来は決したがごとく、勝が跡を継ぐ直前までは極めて落ちぶれた状況だったからだ。

 蒲田 初音鮨の始まりは、勝の曽祖父、中治治次(はるつぐ)の世代にまでさかのぼる。

 治次は、その妻の実家、大田区大森に程近い森ヶ崎にある「鮨春」を継いで鮨職人としての腕を磨いたあと、町野小六(ころく)という人物と出会い、彼にオーナーになってもらって、大森の三原通り(現在の美原通り)に鮨屋を構える。

 こうして、小六と共同経営をし始めたのが、大森・三原通りにあった最初の“初音鮨”。時に1893年(明治26年)。富国強兵が叫ばれていた日本。日清戦争前年のことだった。

 何しろ明治時代のこと。鮨屋の息子といえば、身代をつぶす放蕩息子というのが相場だった。そこで、親は、デキの良い鮨職人を見極めて、娘を嫁がせた上で、暖簾(のれん)を継がせるのが一般的だった。

 そんなことが当たり前の時代に、治次は「鮨春」を受け継ぎ、そこで鮨職人としての経験を積み上げ、その腕を生かして、小六とともに、当時活況を呈していた湾岸の中でも伸び盛りの大森海岸での事業拡大を狙ったのだ。

 日本が工業力の強化を目指し、軍備を強化する中で生産力を高めていた時代、東京湾岸の景気は上向き続けていた。日清戦争から日露戦争、さらには第一次世界大戦で戦勝国となったことが、アジアの小国・日本にもたらした恩恵は決して小さなものではなかった。東京湾岸、田町周辺から川崎・横浜にまで広がっていた京浜工業地帯は、戦争景気に沸き、成長を続けていた。

 その影響は真面目に鮨屋を営む初音鮨にも少なからぬ恩恵をもたらしていたのだろう。

 治次は、息子・金太郎と小六の娘・町野高が夫婦になると、1920年(大正9年)に蒲田西口本通りに初音鮨の支店を設け、息子・金太郎夫妻にその店を託した。

 京浜工業地帯のど真ん中にある蒲田という街は、この時代に豊かになっていく国とともに、右肩上がりの成長を遂げている、中小の町工場で栄える街だった。

 その蒲田西口本通りといえば、蒲田駅前の目抜き通り。治次の目算通り、初音鮨の支店はトントン拍子で売り上げを増やしていった。1923年(大正12年)の関東大震災を一つの契機として三原通りの本店を閉めた初音鮨は、街の発展とともに売り上げを増やしていったその支店を、新たなる本店と定めて営業することになる。

 勢いのついた初音鮨は、この駅前店舗開業によって得た利益で、現在の蒲田 初音鮨がある場所に、80坪の広い土地を購入する。

 繁盛していた初音鮨には、仕込み専用の調理場、住み込みの従業員・お手伝いを住まわせる部屋などが必要だと考えられたからだ。

 時は、渋沢栄一が田園都市株式会社を設立し、1923年の分譲開始に向けて、イタチがよく出るというススキの野原(現在の田園調布)を開拓していたその頃のこと。初音鮨は、伸び盛りの繁華街として栄え始めていた蒲田に店の運命を託し、この地とともに成長していったのである。

 初音鮨が蒲田へ進出したのと同じ1920年。この年に開所されたのが、前述の松竹蒲田撮影所だ。『蒲田行進曲』の舞台となったこの撮影所の影響で、街は映画スターと芸子さんが闊歩する、華やかなあこがれの街へと変わっていった。

 現在の蒲田とは趣が異なる駅前の街には、人が多く集まってきた。

 当時の初音鮨は、新規に作った80坪の店舗を主に仕込みと店員の住居、宴会場として使い、駅前の出店では、立ち食い用カウンターで鮨を出す形での営業を続けた。“ちょっとイイ感じ”のファストフード店という、まさに鮨本来の営業スタイルを体現していたのだ。

 銀座のようなかしこまった名店ではなく、街の活気そのままに、カウンターに並ぶ人をかき分けて鮨を注文して食べる店。「ちょいと詰めてくれないかね」と声をかけ、好きなネタを読み上げて、代金を落としたら、パパッと食べてすぐに立ち去る。

 この頃の初音鮨は、住み込みの手伝いや弟子たちを抱えるだけの十分な規模を持ちつつ、「今後どう商売を広げていこうか」という夢を語れる、決して小さくはない鮨屋だった。地元に親しまれていた様子は、その後の第二次世界大戦を経て、高度成長期に至るまでなお、何不自由なく営業が続けられていたことからも分かろうというものだ。

 しかしそんな初音鮨にも、やがて大きな転機が訪れる。

 戦後の高度成長期に稼ぎ頭となっていた駅前店舗を、失うことになったのだ。

●東京オリンピックで吹き始めた逆風

 転機は、1964年の東京オリンピック開催だった。

 オリンピックで各国の要人、記者、観光客に対して、“目覚ましい戦後復興を遂げ、安全で美しく衛生的な街となった東京”をアピールすべく、国を挙げての東京都全体の開発――いや、大改造計画といった方がいいだろうか――が実施された。オリンピックを前に、新しい日本を世界中に見せるべく、東京中で“突貫”での大改造が施され始めたのだ。

 初音鮨がある蒲田の街も、その例外ではなかった。駅前を中心にした区画整理が進められ、“三丁目の夕日”の向こう側に建設中の東京タワーが見える頃には、駅前の再開発によって、初音鮨は、賃借していた建物の使用権を突如失ったのである。

 「そんな不条理なことがあるのか?」と、現代の感覚ならば、“ありえない”と思うかもしれない。しかし、当時は決して珍しい話ではなかった。

 駅前の店舗は、蒲田西口郵便局長だった大家の持ち物だった。ところが、この大家の家にあるやむを得ない事情が発生し――権利を主張できる契約書の一つもない状況で、駅前の初音鮨は営業権を突如失ったのである。

 勝の祖父・金太郎が若い頃に店を任され、その立ち上げに奮闘していた当時、実はこの郵便局長には、いたくお世話になっていた。そのため、金太郎は文句一つ言わず、最高の立地にあった駅前の本店を、何の補償も受け取らないまま明け渡すことを決める。

 国が主導した再開発において、人と人とのつながりなど、何の抵抗力にもならない時代だった。しかし、治次が目をつけた蒲田の発展と、駅前店舗で得られた利益は、駅から多少遠く、商店街からも一本はずれた場所にあるとはいえ、金太郎に80坪の土地と建物をもたらしていた。

 こうと決まった以上は、仕方がない。金太郎は、仕込み用の調理場と住み込みの従業員の部屋、宴会場、それに自分たちの住居が混在していた80坪の屋敷を、こぎれいに整備し、そこを新たな店舗と定めることにする。

 さらなる再開発が何度も行われ、巨大なビルが建ち並び、ゴチャゴチャした密集感が消えてひらけた空が見えるようになった現在でさえ、「へぇ、初音さんって、こんな外れた場所にあるんですね」と多くの人が思う、駅から少し遠い、決して好立地とはいえない場所。それもそのはず。元からここで営業する予定などなかったのである。

 明治から大正期にかけて躍進した日本。その日本とともに発展してきた蒲田と初音鮨にとって、この移転は、初めて迎えた逆風だったといえるかもしれない。戦後の日本が大きく動き始め、再び成長軌道へと向かう中、かつての華やかさを蒲田が失っていくのと同じように、その逆風から金太郎の店も勢いを失っていく。

 金太郎は、かつての駅前店舗の活況ぶり、伸びゆく日本の景気から、楽観視をしていたのかもしれない。

 広い土地に、大きな建物。場所は悪くなったとしても、大正時代から続けてきたなじみの鮨屋である。きっと駅から離れていても、蒲田を支える町工場からの出前注文、宴会予約は、絶えることがないはずだ。

 しかし、その初めての逆風は、その後の苦難の時代の始まりでしかなかった。

 少しばかりの逆風だと思っていた風は、やがて嵐となり、蒲田 初音鮨の勢いを削いでいく。いや、嵐という言葉だけでは言い表せない。「坂道を転げていく、最初の第一歩」だったと表現すべきだろう。

●時代が育んだ“勝”少年の心

 代々、その業を受け継ぎ、地元と密接に関わりながら商売を続けてきた堅実な鮨屋である。場所は悪くとも、元からその腕と人柄を見込んだ客は数多くいた。

 どんな街にも一軒ぐらいはある鮨屋。「今日はごちそうだな」と言いながら、電話で出前を取るなら「あそこしかない」店。そう思う地元客が注文を入れれば、しっかりとした仕事で鮨を握ってくれる街の鮨屋。

 それが、緩やかな斜陽を迎え始めた蒲田の街にある、蒲田 初音鮨だった。

 後に四代目となる勝が生まれたのは、1963年(昭和38年)4月11日。勝が生まれ育った時期は、日本の戦後高度成長期(1955〜1973年)に重なる。勝が生まれた翌年には東京オリンピックがあり、1970年の大阪万博の時、勝は小学1年生だった。

 そんな勝の少年時代。戦後、奇跡的ともいえる復興を遂げた日本ではあったが、高度成長期はもはや終盤に差し掛かり、まだまだ多くの家庭が貧しさの中にあった。多少恵まれた家があったとしても、多くの家庭はまだ豊かになる途上にあった。

 当時の東京は、山の手にお屋敷町がある一方で、下町には大家族の住むお風呂のない狭く小さい住宅が多くあった。豪邸から数十メートルしか離れていないアパートには、母親たちが乳飲み子を抱えて家事の合間に内職で家計を支えている家がある。そんな風情が行ったり来たり、くり返し出てくるのが、他の都市にはない江戸・東京の特徴だった。

 貧しさと豊かさが折り重なる当時の東京だったが、今よりも牧歌的な雰囲気が強くあったのは、日本全体の経済が上向きであることを皆が確信できていたからだろう。

 缶入り飲料がほとんどなかったこの頃、コカ・コーラは、何度も使い回せる瓶に詰められていた。瓶代10円を除くと、飲み物の価格は35円。意外に安いと感じるかもしれないが、当時のコカ・コーラは、今よりずっとぜいたくな飲み物だった。

 その価格は、1972年には40円、翌1973年には50円へと立て続けに値上がりし、人気たばこのハイライトは、1975年に80円から120円へと一気に値上げ。物価は上がるのが当たり前、給料も上がるのが当たり前の時代だった。

 二度のオイルショックで市場に混乱が起き、原材料やエネルギーのコスト上昇による急激な物価上昇があったものの、それでも前向きな経済、所得増加の見通しが、皆の将来への希望を生み出していた。現在の日本にはない、「成長するのが当たり前」という前向きな空気感が当時の日本人の心を明るいものにしていたのである。

 高度成長期やバブル期を経た現在でこそ、畑や田園、小さな工場などが住宅地へと姿を変え、街の様相も様変わりした東京ではあるが、江戸から続く東京の街は、今も山の手と下町が、極めて狭い地域で交互に折り重なる、世界的に見ても珍しい都市構造を残している。

 勝が育った時代の東京は、急速に豊かになっていく日本社会の中で、豊かさと貧しさとを一つの視点から同時に見渡せる都市であった。

 その後、日本は急速に「一億総中流」といわれる時代に入っていくが、当時はまだ“どんどん豊かになっていけるのではないか”という期待感と、“社会全体の豊かさから置き去りにされ、相対的に貧しくなっていく足元”への寂しさが、庶民の心中でないまぜになっていた。

 「どのようにすれば、自分自身が這い上がっていけるのか」「より頑張っていけるのか」「自分を育ててくれた家族の生活の質を、どうしたら高められるのか」――そんな、誰もが前向きになれる頃に、豊かさと貧しさの双方を見渡せたことが、この時代の少年たちをたくましく、野心的にしたのかもしれない。

 そんな、誰もが「まだまだ“これから”」という伸びしろを感じていた時代――蒲田で育った勝は「なぜ、俺の名前は、“かつ”なんだろう? いったい何に勝つって言うんだろう?」と自問自答する少年だった。そんな勝少年は、“正義は勝つ”という子どもらしい心から「いつか世の中で正しいことをやろう。そのために、どんな努力でもしよう」という意志を強く持った、負けず嫌いな子どもだった。

●何人、何回でも、少年たちを笑顔で迎える“鮨職人”の心意気

 「勝くん。勝くんのお家は、鮨屋なんだってね?」

 勝はある時、小学校の同級生から、そんな質問をされた。

 「そうだよ。鮨屋だよ。それがどうかしたのかい?」

 「鮨屋だと、毎日、鮨を食べられるのかい?」

 日本初の回転寿司店「廻る元禄寿司」が現在の東大阪市にオープンしたのが1958年、その二号店が出店されたのは10年後の1968年だった。「廻る元禄寿司」はその後、1970年の大阪万博に出店したことで知名度を高め、フランチャイズチェーンが広がっていくことになるが、本格的に回転寿司店が増え始めるのは、「廻る元禄寿司」のベルトコンベヤーによる鮨の提供法が特許期限を迎えた1978年以降のことである。

 それ以前は、銀座だろうと、下町の駅前だろうと、鮨を食べるには、職人のいる鮨屋を訪ねてカウンター越しにひとつひとつ注文するか、電話で出前を頼むほかなかった。

 今のように、“大量に握ることを前提に、あらかじめネタが一貫ずつの切り身にして置かれ、さらにシャリも一貫ごとにまとまって配置されており、そのシャリの上にネタを重ねて握るだけ”――そんな時代が来るとは、誰もが想像もできない時代。

 そう、鮨は現在よりもずっと“高級な食事”だったのだ。

 鮨を食べられると想像するだけで涎(よだれ)が出てくる。だから、鮨を毎日食べられる環境を、うらやましいと思わない下町っ子なんて、いたはずがない。

 余りもののネタで握られた鮨を食べることが日常の風景だった勝にとって、友達からの羨望の言葉は、新しい発見だった。

 「そんなに鮨が好きなら、うちに遊びに来るかい?」

 子どもの何気ない誘いである。

 そうして数人の友達を自宅に連れてくると、父・中治功はいつも笑顔で迎えてくれた。住居と宴会場を兼ねた二階に友人を招き入れると、大きな寿司桶を当然のように持って上がってくる。

 かっぱ巻きにかんぴょう巻、卵焼きの握り。決して豪華な鮨ではない。しかし、腹を空かせた成長期の子どもたちには、それでも十分なごちそうだった。

 5人連れていけば10人前、必ずお腹いっぱいになるまで食べさせ、満腹・笑顔にして友達を帰していく。何回、友達を連れていっても文句を言わず、父・功は、笑顔で勝たちを迎え続けてくれた。

 小学校から中学校、高校へと進学する中で、勝が連れてくる友人の数は増え、食べるネタの種類も、大人が喜ぶ魚が織り交ぜられていった。

 しかし、何人連れて帰っても、何回連れて帰っても、功は決して一言も文句を言わず、いつも笑顔で少年たちを迎えていた。

 勝が高校に上がると、文化祭・体育祭の役員・委員会の“打ち上げ”はいつも蒲田 初音鮨で行われた。育ち盛りの少年たちが、多い時には10人以上も集まって、そんな中でも、全員が必ずお腹いっぱいになるようにと、ざっと20人前をパパッと手早く握り、ニコニコうれしそうに息子の友人たちに寿司桶を差し出し、サッと仕事へと戻っていく父の姿。それが、勝少年の目に、スーパーマンのようにカッコ良く、誇らしく見えたことは、今も勝の脳裏に焼き付いて離れない。

 「自分の息子が、娘が、10人もの友人を何度も連れてきて、“鮨を握って”と言ってきたら、自分は毎回、同じように笑顔で握ってやれるだろうか?」

 勝があの頃の父の心を本当の意味で理解できるようになったのは、ずっとあとになってからのことだ。自分が大人になり、職人の目線を持って初めて、勝は、自分の父が「自分の息子のため、放課後に最高のエンターテインメントを提供しようと努力してくれていた」ことを心底理解できた。

 少年の頃はまだ、その父の心のうちを、咀嚼(そしゃく)して“理解”できていたわけではない。だが、その姿は、心の中に強く刻まれていた。

 「人々に笑顔を与えること、満足した気持ちを味わってもらうこと。足取り軽く、家路へとついてもらうこと」――どんなに忙しく、つらい時であったとしても、それを平然とやってのける父に対するあこがれの気持ちが、後の勝の人生を導くことになる。

【この記事は、本田雅一氏の著書『蒲田 初音鮨物語』より第二章を転載、編集しています】