2019年6月22日に、東京・神保町の書泉グランデにおいて、「スタジオジブリプロデューサー鈴木敏夫さんトーク&サイン会」が行われた。

 鈴木敏夫氏といえば、スタジオジブリのプロデューサーとして、宮崎駿作品をはじめとするアニメーション映画の制作に尽力している人物だ。一方で鈴木氏は、ラジオ番組「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」のパーソナリティーなどで、映画や文化、社会問題といった多彩な話題を、軽妙なトークで自在に語ることでも知られている。また、初のノンフィクション小説『南の国のカンヤダ』(小学館)も話題になっている。

 当日は、鈴木氏と親交がある高橋豊氏(アニメイトホールディングス代表取締役会長、「高」は正確には「はしごだか」)が来場。鈴木氏と高橋氏が出会った徳間書店の編集者時代のエピソードが語られた。鈴木氏の就職活動や、徳間書店に入社して配属された『週刊アサヒ芸能』での仕事といった話題が登場するなか、トークの中心となったのは、鈴木氏の徳間書店時代の上司である故・尾形英夫氏との思い出だ。

 『月刊アニメージュ』の初代編集長となった尾形英夫氏の下で、新人時代から編集者として仕事を続けてきた鈴木氏(ちなみに鈴木氏は『月刊アニメージュ』の二代目編集長)は、この尾形氏から大きな影響を受けたという。徳間書店入社前後の話題や、尾形英夫氏については、鈴木氏のロングインタビュー集『風に吹かれてI――スタジオジブリへの道 』(中公文庫)や『風に吹かれてII――スタジオジブリの現在』(中公文庫)の中にも登場しているが、今回語られたのは、部下である鈴木氏の目から見た尾形氏の、型破りなエピソードだ。

 鈴木氏による味わいのある語り口で活写される、昭和の雑誌編集者の個性的な姿をご堪能いただきたい。

●「子ども調査研究所」でのアルバイトがきっかけ 雑誌編集者の道へ

鈴木氏: どうも、こんにちは。みなさん集まっていただいてありがとうございます。直前まで、いったいどういうお話をしたらいいんだか、まったく用意していなくて。いつもそうなんですけど、みなさんのお顔を拝見してからね、話を決めようと。

 今日は書泉グランデに来ているんですけど、書泉グランデって、アニメイトという会社のグループなんですよね。アニメイトはみなさんご存じだと思いますけど、それだけじゃなくて芳林堂書店さんとか、この書泉グランデだとか、いろんな事業をやっているんです。それでさっき見ていたらね、そこの高橋さん(高橋豊氏【※】)が来られているんですよ。

※高橋豊 アニメイト創業者。現在はアニメイトホールディングス代表取締役会長。アニメイトグループにはアニメショップチェーンの展開を行う株式会社アニメイトのほか、株式会社ムービック、株式会社ゲーマーズ、株式会社書泉などが存在している。

 今日のこのサイン会を企画していただいたのは、高橋さんなんです。なので、高橋さんにも参加してもらおうと思いますけれど、みなさんいかがですか? (会場拍手)

鈴木氏: 僕が高橋さんにお目にかかったのはね、たぶん20代だと思うんですけど。

高橋氏: 20代後半か、30歳になったぐらいじゃないですかね。

鈴木氏: 今日来られているみなさんとたぶん、同じぐらいじゃないかと。僕は当時ね、何をやっていたかというと、徳間書店というところで雑誌を作っていたんです。

 僕は徳間書店に入って最初、週刊誌をやらされて。今もあるんですけど。『週刊アサヒ芸能』っていう。読んだことのある人は少ないですよね、この中に。世間では“俗悪誌”と言われていて(笑)。

 じつを言うと就職の時に、自分が何をしたいかというのがまったくなくて。「働かなきゃいけないから働く」なんてことを考えているうちにね、いろんな会社の就職試験がどんどん終わっちゃうんですよ。気がついたら、大学のクラスで就職が決まっていないのが、3人だけになっちゃって(笑)。

 それで、どうしようかなと思っている時に、渋谷に当時「子ども調査研究所」というのがあって。僕はそこでアルバイトをしていたんですね。アルバイトと言いながら、まる2年間毎日ね、その会社に朝出勤をして夕方まで働いていたんです。

●アルバイト代より原稿料の方が高かった

 「子ども調査研究所」というのは、子どもたちの意識調査をやっていて。電通さんとか博報堂さんから頼まれて、今の子どもたちの嗜好がどこにあるか、子どもたちを集めて座談会をやったりね。

 例えば、次の年の夏にどういうアイスクリームを出すか。アイスクリームの試作品が5種類ぐらい並んでいるんですよ。それを子どもたちに食べてもらって、どれがおいしいかっていう。それを子どもたちに好き勝手にしゃべってもらって。

 その時に僕は初めて知ったんですけど、アイスクリームって日本の場合、甘さが少しずつ減っているんですよ。そういう時代だったんでしょうか。1970年ぐらいですけど。それでお菓子会社の方たちも電通さんたちも、どのくらい甘さを抑えたら売れるかっていう、その調査なんですよ。

 子どもたちが5、6人ぐらいいたと思いますけど、5種類のアイスクリームをみんなに食べてもらって、「どれが好きか?」って聞くんです。僕は司会も兼ねていたから「君はなんでこれが好きなの?」って聞いたりして、いろいろ話し合った結果を、後で原稿にまとめるっていうね。そういう仕事もやっていて。

 話が横道に逸れちゃうかもしれないけど、1970年だと、大学を卒業してもらえる初任給が3万円ぐらい。そういう時代に僕は時間給でアルバイトをしていて。ずいぶん安かったんですよね、今振り返ると。1カ月丸ごと働いて、もらえるのが1万円ちょっとだったんです。

 ところがですね、座談会をまとめる原稿料が、400字の原稿用紙で1枚につき、1000円もらえるんですよ。僕はだいたい一晩でそれを書いていたんですけど、30枚書くと3万円ですよ。会社に入ってもらえる初任給が3万円。それがこの原稿だと、一晩で3万円になるわけでしょ。それをだいたい月に1本とか2本書いていて。加えて、勤務してもらえるアルバイト代も、1万円ちょっとあるわけで。

 じつを言うとね、僕はそのバイトが終わった後に、家庭教師もやっていたんです。そうやっていくと僕は1カ月で、当時のお金で8万円ぐらい稼いでいたんですよ。くどいですけど、大卒の初任給が3万円の時に。なんか、威張っているみたいですけどね。

 それで、さっきの話にやっと戻るんですけど、就職をどうしようかなって。何の仕事をすればいいか、全然夢も希望もなくて。夢も希望もないというのはたぶん、当時の時代状況もあったんでしょう。僕らの時代は学生運動というのがあって。単純に言うと、世の中を良くしようみたいな運動だったんですけど。そのなかでなんとなくね、自分の目的の会社にすんなり入るのってどうなんだろう、なんて思っていた時があって。そうやっているうちに、クラスで3人になっちゃったんです。

 そうしたらね、子ども調査研究所の所長さんで、高山英男【※】さんという人がいてね。「鈴木君、就職先は決めたの?」って言うから「いえ、まだです」って言ったら、「鈴木君は原稿をまとめるのがうまいじゃない。そういう仕事をやるべきだよ」と。

※高山英男 子ども調査研究所を設立し、1960年代から40年以上に渡って、子どものライフスタイル研究とマーケティング調査を行ってきた。さまざまな子ども関連商品の開発に協力している。

 僕、その時に「あっ、そうか」って思ったんです。あそこの会社に入りたいとか、ここの会社に入りたいというよりも、「自分のできることは何か」を基盤に考えるということを、高山さんが教えてくれたんです。

 原稿を書くのがうまいというのが役に立つのはね、まぁ言っちゃえば、新聞とか出版社ですよね。それまで僕は、新聞社や出版社に何の興味もなかったんですよ。でも、そう言われたらね、「書いて給料がもらえるならいいな」と思ってね。それでいろいろあったんですけど、徳間書店に就職が決まるんです。

●『アサヒ芸能』編集部に配属 尾形英夫氏と出会う

鈴木氏: じつを言うと、就職を決めなきゃいけない時にはもう、ほとんどの出版社の採用がすでに終わっていて。そうしたらある日、朝日新聞を読んでいたら、徳間書店というところが募集している。「ずいぶん遅いな」と思ってね、募集時期が。募集時期が遅いというのは、これは大した出版社じゃないなと(笑)。そこだったら気楽に行けるかなと思って、それで受けたといういきさつがあるんですよ。

 これもちょっと自慢話をすると、たぶんいろんな出版社を落ちた人がいっぱいいたんでしょうね。採用5人に対して、応募はなんと2000人。その2000人の難関を乗り越えて、僕は受かっちゃうんですよ。

 でもね、その5人が集まってしゃべっていたら、すぐ答えが分かったんです。5人の出身地。まずA君が青森の弘前。B君が東京。僕がじつを言うと名古屋の出身で。C君が大阪で、D君が九州。要するに日本地図で決めたんだな、と思ってね(笑)。2000人の難関と言ったって、せいぜいそんなものなのかなって。

 それで徳間書店に入って、週刊誌に行くことになるんですけど。面接の時に聞かれたんですよ。面接官がダーッと並んでいるでしょ。なんか面倒くさそうな顔をしてね、「君は週刊誌は何を読んできた?」って聞かれて。でも僕はそれまで、週刊誌って一回も読んだことがなかったんです(笑)。

 ここでどう答えるかって、けっこう大変でしょ? ちょっと耐えがたい間が空いたんですけど、「読んでいません」って言ったんですよ。「読んでないですけど、入ってから勉強します」と(笑)。それしかないじゃないですか、だって本当に読んでないんだもん。それで週刊誌の編集部に入って、3日目にいきなり「取材に行って原稿を書け」と言われた時は、本当に困りましたよね。だって、それまで週刊誌を読んだことがないのに、どうやってその原稿を書くんだって。しょうがないからね、「書け」と言われた後で初めて読むんですよ。

 記事を3本ぐらい読んでいたらね、だいたい分かってきたんです。こういうふうに書くのかと。いまだにそうなんですけど、週刊誌の記事って特徴があるんですよ。

 何かというと、接続詞に特徴があるんです。「とはいえ」とか「したがって」とか、常套句があるんですね。そこで僕は接続詞の一覧というのを作って、机の前に貼ったんです。書いていて困ったら、これを見ればいいと。そうしたらね、「お前、上手だな」とか言われて(笑)。

 こんなところで留まっていたらなかなか先に行けないので。詳しくは『風に吹かれて』(中公文庫)の中に書いてあるんですけど。その週刊誌は短い期間で終わって、次は『テレビランド』【※1】という、子どものためのTV情報誌に行くんです。子どものための雑誌をやりたかったかというと、別にそういうわけじゃなかったんですけど。きっかけは、週刊誌の時の企画部長で尾形英夫【※】という人がいて。この人がすごい頑張り屋さんで。

※1 『月刊テレビランド』1973年に黒崎出版から創刊された子ども向けテレビ情報誌。創刊から約半年後に徳間書店へと引き継がれた。誌面は特撮やアニメのキャラクター情報が中心となっていた。1997年に休刊。

※2 尾形英夫 徳間書店入社後、『週刊アサヒ芸能』などを経て、『月刊アニメージュ』を創刊。初代編集長を務める。スタジオジブリの設立にも関わっている。2007年に逝去。

 週刊誌にはその週や、その前の週に起きた事件だとか、政治的なことだとか、その週にしか扱えない題材の記事がありますよね。そういうのを“特集記事”って言うんです。一方で、小説とかマンガとか占いのページとか、こういうのは“企画ページ”と言って、毎週パターンでやっていくものなんです。この2つがあって、『週刊アサヒ芸能』の企画部長だったのが尾形さんで。

 この人は、なんて言ったらいいのかなぁ……。僕はこの人の影響をずいぶん受けるんですけど。僕は最初、企画部に所属して、尾形さんの部下になったんですよ。そうしたら、入ってきた瞬間からいきなりね、「お前ら何かアイデアないか? なんか思い付くものがあるだろう」って、非常に前向きな人でね。

●俗悪週刊誌がいつのまにか、文化的な雑誌に変わっていた

鈴木氏: 最初に申し上げましたけど、その週刊誌というのはちょっとエッチなページがあったりして、“俗悪誌”と言われていて。ところが尾形という人は、企画で連載物をやる時に、普通だったら考えないような人を俎上に載せるんですよ、俗悪誌なのに。

 僕は学生時代、寺山修司【※】という人が大好きで。この人は詩を書いたり芝居をやったりしていたんですけど。そうすると、僕が入ってすぐに、尾形さんが寺山修司に会って、寺山修司の連載が始まったんですよ。僕は「えっ!?」と思って。なんつったって俗悪誌でしょ。俗悪誌と寺山修司って、普通は結び付かないですよ。これは誰がやったんだろう? って気になるじゃないですか。それが尾形って人だったんですね。

※寺山修司 1954年に18歳で「短歌研究」新人賞を受賞。歌謡曲の作詞などジャンルを超えた文芸活動を繰り広げたほか、文化人として数々のメディアで活躍する。1960年代後半からは演劇実験室「天井棧敷」を設立して、アングラ演劇ブームをけん引。映画監督など創作活動の幅をさらに広げたが、1983年に逝去。

 今の話でお分かりのようにね、尾形さんはその雑誌がどんな性格を持っているとか、どういう傾向にあるとか、なんにも考えないんですよ。自分が興味を持ったら、やるんです。ここが凄(すご)かった。僕はこの人からそれを学ぶんですけどね。

 菅原文太【※】という人がいて。『仁義なき戦い』で有名な役者さん。今度はこの人の連載が始まったんです。僕はビックリしちゃって。尾形さんに聞いてみたことがあるんです。「なんで菅原文太さんなんですか?」って。そうしたら「今、『仁義なき戦い』で有名だろ」って。有名だからって、書けるかどうかは分からないわけでしょ(笑)。でも書かせちゃうんですよ、尾形さんっていう人は。

※菅原文太 1958年に新東宝から俳優デビューし、松竹を経て東映に移籍。1970年代に主演した『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズが大ヒットする。その後も『ハウルの動く城』『ゲド戦記』など映画・TVで活躍したが、晩年は社会問題にも高い関心を見せていた。2014年に逝去。

 『アサヒ芸能』だから雑誌のイメージに合った人を選ぶ、というのは考えない人なんです。自分が興味を持ったことだけ、雑誌の中でやるんですよ。揚げ句の果てにね、週刊誌ってだいたい、連載物が雑誌全体の30パーセントで、残りの70パーセントが特集記事なんです。つまりその週に起きた事件。僕が入った時に尾形さんがちょうど企画部長になって、なんだか知らないけど、雑誌が企画ページばっかりになっていくんですよ(笑)。気がついたら半分以上、企画ページになっちゃったんですね。

 押しの強い人だったから、そういうことをあんまり考えない人だったんですね。特集部長と会話してるのを黙って聞いていると、「尾形君、それじゃあ僕のページが減っちゃうじゃないか!」って言われても、平気なんですよ。「このほうが面白いでしょ」って。

 それで寺山修司さんや菅原文太さんが書くとか、横尾忠則【※1】さんが書くとか、当時の先鋭的な文化人が次から次へと誌面に登場していって。みなさんご存じかどうか分からないけど、平田弘史【※2】という漫画家がいて。チャンバラ漫画なんですけど、なんていうか、けっこう難しい漫画を描く人で。この人も連載を持つ。面白いかどうかなんて関係ないんですよね、尾形にとっては。今評判だからやろう、なんですよ。

※1 横尾忠則 1960年代からグラフィックデザイナーとして、日本のポップアートの最先端をゆく存在に躍り出た。三島由紀夫、寺山修司らとの幅広い交友関係でも知られる。デザインや絵画に留まらず、映画出演やエッセイなど、ジャンルを超えた創作活動を現在も続けている。

※2 平田弘史 1950年代より時代劇を中心に、『薩摩義士伝』『日本凄絶史』『血だるま剣法』など、骨太な劇画を描き続けている。また書家として『AKIRA』『風雲児たち』といったコミックの題字を手掛けている。

 そうこうしているうちに、真崎守【※】っていう漫画家がいて。非常に観念的な漫画を描く人なんですけど。気がついたらこの人も連載を持っちゃうんです。本来なら、どこかの歓楽街がスゴイとか、この殺人事件の犯人はこうだっていう特集記事がいっぱいあるはずが、そういう記事がどんどん増えていっちゃって。気が付くと、『アサヒ芸能』が俗悪雑誌から文化的な雑誌に、いつの間にか変わっちゃったんです(笑)。

※真崎守 1960年に漫画家としてデビューするが、1963年に虫プロダクションに入社。TVアニメ『佐武と市捕物控』の演出などを行う。1960年代後半より再び漫画家としての活動を再開し、『ジロがゆく』『はみだし野郎の子守唄』といった、数々の作品を発表。1980年代にはアニメ業界に戻り、『幻魔大戦』『カムイの剣』の脚本や『時空の旅人』の監督などを手掛けている。

 こんなに特集ページが減って企画ページだらけになっちゃったら、果たしてこの本の売れ行きはどうなるんだろう? って。当然、心配になりますよね。入ったばかりの僕ですら、そう思ったんですよ。ところがなぜか、売り上げを伸ばしていったんですよね。

 僕は後になって知るんですけど、当時、雑誌の評価をする雑誌があって。その中で「『週刊アサヒ芸能』は一見、俗悪誌を装いながら、実際は何をやっているのか」っていう記事が、どんどん書かれるようになったんですよ。それで面白かったのは、「これをやっている人は凄い編集者に違いない」って、そこには書かれているんですけど。でも僕はその人のこと、尾形さんのことを凄いとは思ってなかったんですよ。ヘンな人だなぁと思っていたんです(笑)。

●宮崎駿も平井和正も、尾形英夫が連載を執筆させた

鈴木氏: ついでだから言っちゃいますけど、『幻魔大戦』を書いた平井和正【※】という有名な小説家がいるんですけど。じつはこの人に小説を書かせたのも尾形英夫で。それまで平井和正という人は、TV番組の放送作家だったんですよ。そういう人に知り合うと、尾形さんはパッと言うんですよね。「書きな」って。

※平井和正 ウルフガイ・シリーズや幻魔大戦シリーズなどの作品で知られるSF作家。2015年に逝去。平井氏は1962年に作家として商業誌デビューしているが、その後は『エイトマン』といったTVアニメの脚本や、漫画原作が中心となっていた。平井氏が最初の長編SF小説『メガロポリスの虎』を発表するのは1968年のことだが、ほぼ同時期の1969年に『週刊アサヒ芸能』で短編小説を連載している。

 僕は『テレビランド』、それから彼が編集長になった『アニメージュ』って雑誌にもいましたけど、彼を見ていると全部同じなんですよ。宮崎駿に会った時も、会った瞬間にですよ。「絵が描けるんだよね、漫画を描きなさい」って(笑)。それが『ナウシカ』のきっかけ【※】なんです。

※それが『ナウシカ』のきっかけ 『風の谷のナウシカ』は、尾形英夫氏が編集長を務めていた当時の『月刊アニメージュ』で連載が開始された宮崎駿氏の漫画『風の谷のナウシカ』を原作として、劇場アニメが作られた。これが次作『天空の城ラピュタ』制作の際に、スタジオジブリの設立へとつながる。

 梶原一騎【※】ってご存じですか。ある日、尾形に「梶原一騎が徳間へ来て、ご飯を食べることになってるんだ。敏夫君も付き合え」って言われて。それでしょうがないから付き合ったんですよ。そうしたら尾形は梶原さんにね、こう言ったんです。「先生の『あしたのジョー』って凄いですよね、特に最初のシーン、上野駅が良かった。僕は東北の出身だから」って。尾形は宮城の気仙沼の出身なんです。「あの上野駅のシーンが良かった」って。

※梶原一騎 『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』など、漫画原作者として多数のヒット作を生み出し、1960年代後半から70年代前半にかけてスポ根ブームを巻き起こした。1987年に逝去。

 じつを言うと僕は当時、『あしたのジョー』の大ファンで。よく知っているからどうしようかなと思ったんですけど、『あしたのジョー』に上野駅は出てこないんですよ(笑)。自分で勝手に決めちゃうんですね、内容を。それで梶原一騎さんのほうも、尾形が凄い迫力だから、訂正もできない。

 揚げ句の果てにね、鍋を食べたんですけど、梶原一騎は料理にすぐ手を付ける人じゃなかったんですよ。でも尾形は、来たらすぐ食べちゃうんです。これは本当に忘れられないんですけど、尾形はカニが好きだったんですよね。それで見たら、梶原一騎がカニに手をつけてない。そうしたら、しゃべってる途中にいきなりですよ、自分の箸でパッとカニをつまんでるんです。それで「食べないんですか?」って言った瞬間にはもう、自分の口に入ってた(笑)。

 凄い人でしたね。天下の梶原一騎に有無を言わさない。尾形さんが「上野駅が」って言ったら、梶原さん本人も「そんなシーンあったかな」って。とにかく尾形さんが1人で勝手にしゃべる。そういう人だったんですよ。

●日本テレビの重役が「生涯忘れない」と語った尾形氏とは

鈴木氏: 前置きがすごく長くなったんですけど。僕はたぶんですけど、その『テレビランド』や『アニメージュ』の時に、高橋さんにお目にかかっているんです。『テレビランド』ですか? 

高橋氏: 『テレビランド』ですね。

鈴木氏: なんで尾形と高橋さんの付き合いが始まったのか、僕は何も知らないんですけど。いつも編集部の片隅でね、2人でコチョコチョしゃべってるんですよ。何をしゃべってるかは、聞こえないようにしゃべってるから分からないんです。ただ尾形っていう人は、カラオケが好きだったので、たぶんね、どこのカラオケに行くかっていう話だったんじゃないかと(笑)。どうですか? 

高橋氏: 仕事の話はまったくしませんでしたね(笑)。

鈴木氏: 尾形って人は、いろんな方とカラオケに行くのが好きで。毎週月曜日に会社に来て、まず何をやるかというと、その一週間のカラオケの予定表を、いろんな人に電話して決めるっていう(笑)。それが月曜日の朝の日課で。たぶん高橋さんもずいぶん誘われたと思うんですけど。

 ついでにこれも言わなきゃいけないな。尾形は本当にケチな人だったんですよ。僕もカラオケに参加したことがあるんですけど、僕の知る限り、尾形はただの一度もお金を払ったことがない。

高橋氏: 私の知る限りでもありませんでした(笑)。

鈴木氏: お金を払う側には普通、仕事上の利益を誘導したいって思惑があるじゃないですか。歌いながらとか、お酒を呑(の)みながらとか、その合間に仕事の話をみなさんいっぱいするわけですよ。ところが尾形って、そんな話を聞いてないんですよ。僕の知る限り一度も。一緒に歌を唄ったり、ごちそうになったり、そういう付き合いの中で、仕事が生まれたことはなかったですね(笑)。ただ歌いたいんですよ。やっぱりそうでした? 

高橋氏: 全然お酒を呑まないんですよ。お酒を呑むクラブに行ってもすぐ「生卵とご飯」って頼んじゃうんです(笑)。お店は迷惑すると思うんですけど。それを食べて歌うんですよ。

鈴木氏: 僕ね、感心したことがあって。思い出しちゃったから言いますけどね。日本テレビさんとはすごく親しくさせていただいて。そこに務台猛雄さんという人がいて。この人はどういう人かというと、務台さんのお父さんは長い間、読売新聞に貢献した人で、自分の息子さんたちを読売グループのいろんなところに入れたんですけど。

 その務台さんが、日テレの中で局長になったんです。そうすると尾形さんが「今度、務台さんが偉くなったから、盛大なパーティーを開く」って。「敏夫君もあの人には世話になっているだろ。お前も手伝え」って言われて。だからその会場に行ったんですよ。飲み屋さんを借り切って。

 それで務台さんが現れた時に、僕が驚いたことが2つあったんですよ。1つ。務台さんのお祝いでしょ。ということは、そこに集まるのは普通、務台さんと関係のある、ふだんから親しくしている人とかでしょ。ところがですね、僕が知る限り、務台さんが知ってる人は1人もいなかったんです(笑)。尾形が集めたのは全部、自分の友達なんですよ。いろんな人が集まったんだけど、務台さんは1人も知らなかったんですね。

 それで務台さんが現れて「尾形さん、今日はすいませんね、僕のために」って。その次に尾形が何を言ったか、僕は生涯忘れないんですけど、「務台さん、会費!」って言ったんです(笑)。これが2つ目。

 務台さんはもう慣れてたから、会費を払って(笑)。それでパッと見回したら全員知らない人でしょ。そこで何が起きたかというと、名刺を配らなきゃいけないんですよ、自分のお祝いのパーティーで(笑)。それを見ながら僕はね、「いったい尾形さんって何なんだろう」と思いましたよね(笑)。

 それで一次会が終わったら尾形さんから、「今日はみなさんにおみやげがある」と。務台さんが「今日はお祝いをしてもらった上におみやげまで頂いて」と、中をパッと見たら、包み紙に「日テレ」と書いてあって(笑)。

 これは種明かしをすると、僕の親しい友人で、日本テレビに奥田誠治【※】という人がいて。尾形は奥田さんに「お前も手伝え」と。日本テレビには出演者やその他の皆さまに配る、時計とかいろんな物があるんです。「それを100個持ってこい」と。つまり務台さんにしてみれば、自分の会社のものでしょ(笑)。お礼を言った直後にビックリしちゃって。

※奥田誠治 日本テレビ映画事業部に在籍していた当時、『魔女の宅急便』から『思い出のマーニー』までのスタジオジブリ作品に製作担当として参加。ほかにも『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ、『DEATH NOTE』シリーズ、『20世紀少年』シリーズなどをプロデュースしている。現在は松竹(株)映像企画部エグゼクティブプロデューサー。

 これも僕は忘れないんだけど、奥田さんがおみやげを100個持って現れたわけですよ、前もって。その時に尾形が何を言ったかというと「奥田君、ありがとう。君は参加しないよな」って(笑)。「これが君の仕事だから。じゃあな」って。これが実話なんですよ。

 今の話でみなさんに伝えたかったのは、尾形という人はとにかくケチで、みんなとお酒を呑みに行っても歌を唄っても、お金を一切払わない。徹底してるでしょ。

 務台さんはさっき言ったように、読売グループのすごく偉い人だから、みんな務台さんに、ある思惑を持って近づいてくるわけです。僕はご本人に聞いたことがあるんですけど、務台さんというのはだいたい奢(おご)られる人なんですよ。この人とお近づきになれば仕事で良いことがあるはずだって。

 それで尾形が死んだ時に、務台さんと僕の2人きりになる瞬間があったんです。そうしたら務台さんがしみじみとこう言ったんですね。「僕はいろんな方と付き合ったけど、僕が生涯忘れないのは、尾形さんです」って。どうしてなんですかねぇ。

高橋氏: 確かに、新鮮だったかもしれないですね。

●徳間書店を退社した尾形氏が、バンダイに再就職するはずが……

鈴木氏: 尾形は面白い人だったけれど、会社のいろんな人にとっては、なかなか付き合うのが大変だったんですよ。徳間書店で常務にまでなるんですけど、いろいろあって会社を辞めたんです。

 そうしたら、バンダイというオモチャの会社があって、そこに杉浦さん(杉浦幸昌氏【※】)という、バンダイを経営的に成功させた方がいて。その杉浦さんが「ぜひバンダイに来てほしい」と、尾形に声をかけたんですね。バンダイとしては尾形さんを丁重に迎えたいと。

※杉浦幸昌 元バンダイ代表取締役会長。1970年代前半に、当時バンダイの子会社だったポピーの常務として、「仮面ライダー変身ベルト」などを企画して大ヒットを生み出す。

 そこでみんなでね、尾形さんの移籍のためのちょっとした宴会をやったんですよ。当時バンダイの社長だった山科さん(山科誠氏)が、徳間の大事な尾形さんをバンダイに迎えるので、よろしくお願いしますという儀式までやって。徳間社長も同席していました。これで尾形さんもバンダイの人として新たな人生を歩むと。今考えると62、3歳ぐらいだったんですけど。

 そうしたら、尾形さんがバンダイに勤め始めた日から一週間ぐらい経(た)った頃に、杉浦さんから僕に電話があったんです。「杉浦さんですか。尾形、元気ですか?」「鈴木さん、その話なんだよ」「どうしたんですか?」「ちょっと言いにくいんだけど、(会社に)来ないんだよ」って(笑)。

 「だって、もう一週間経ってますよね? 何の連絡もありませんか?」「ないんだよ。それで悪いんだけど、尾形さんがどうしてるか、調べてくれない?」って。

 しょうがないから、尾形に電話したら、家にいたんですね。「尾形さん、バンダイに行ってないんですね」「まぁな」って。「ちょっと話を聞きたいんですけど」って、家の近くまで行って、喫茶店に入って。でもなかなか本心を言わない。けっこう時間がかかるんですけどね。「なんでバンダイに行かないんですか。あれだけ大げさに決めたことでしょ」「分かってるよ、そんなこと」って、なかなか話さないんですよ。そうやって何回もやってると、やっとね、言い出したんですよ。

 「あの後、バンダイへあいさつに行ったんだよ。そうしたら杉浦さんが案内してくれてな。どういう部門があって、どういう責任者がいるか、全部紹介してくれた。そこでな、一言言われたんだよ」って。「なんて言われたんですか?」「“半年ぐらい遊んでください”って言われた」と。

 「“仕事をやるにはバンダイのことを覚えてもらわなきゃいけないんで、半年ぐらいは遊んでください。その上でやっていただければいいんで”って」「それで?」って聞いたら、「俺はな、タダで金をもらうのはイヤだよ」って。これにはビックリしましたね。

高橋氏: ビックリしました。

鈴木氏: 働かないで金をもらうなんて冗談じゃない。俺はそれはイヤだって。「尾形さん、徳間社長だの、山科社長だの、みんなで盛大に集まったじゃないですか」「でもイヤなものはイヤだ」って。これはもうしょうがなくてね。杉浦さんに会いに行って、全部打ち明けました。

 そうしたら杉浦さんは「悪かった。俺の一言がそういうことを招いたんだな」って。「鈴木さんに頼みがある。あの人は一度言い出したら二度と引き下がらない。でも何かやらなきゃいけないだろ。その時は俺に声をかけて」と。

 その後でね、尾形さんは小さな編集プロダクションを作ったんですよ。ちょうどこの神田なんですけど。そうしたら珍しく尾形さんから電話がかかってきてね、「うまくいったらゆくゆくは出版社にしようかと思ってるんだ」って。「金も必要だから、いろんな人に出資をしてもらおうと思ってる」「どなたに頼むんですか?」って聞いたら、まず高橋さん。

高橋氏: 少しずつですよ、みんなで。

鈴木氏: その次にね、聞いたら「えっ!」と思ったんだけど、「バンダイにも頼もうかと思ってるんだ」って(笑)。「こうこうこうで、杉浦さんはやるって言ってましたよ」「そうか」って。

 次に「JAL」って言ったんですよ。日本航空。『紅の豚』で世話になった【※】からって。そうしたら、みなさんお金を出すことになって。その中で気になったのがJALさんだったんですよ。なぜかというと、高橋さんはグループのいちばん偉い人だから自分で決断できる。バンダイの杉浦さんも偉い人だからどうにでもなる。でもJALさんは、そんなに偉い人じゃないんですよ、担当の方は。

※『紅の豚』で世話になった 劇場アニメ『紅の豚』は制作開始当初、日本航空の機内上映作品として企画された。

 だから僕としては、その人が困るんじゃないかと思って、連絡してみたんです。「尾形の新会社で迷惑を掛けていないですか?」って。それで僕、こう言ったんですよ。「絶対成功しないですよ」って。「分かってる」「分かってるなら、迷惑を掛けちゃうんじゃないですか」って聞いたら、その人はこう言ったんです。「鈴木さんさぁ、JALにね、あんな人はいなかった」って。だからお金を出す。損しても自分で何とかするって。凄いですよね。

 高橋さんの顔を見ていたら、尾形さんのことを思い出しちゃって。さっきからもう2回も、時間だから止めろって合図が出ていて(笑)。お粗末でした(場内拍手)。高橋さん、ありがとうございました。

高橋氏: 話を聞いて、あの時に鈴木さんが『週刊アサヒ芸能』の編集部に就職されていなければ、ジブリの作品が世に出なかったと思うと、本当に安心しました。ありがとうございました。

鈴木氏: その通りです(笑)。あっ、そうだ。尾形のいちばん大事にしていた言葉を、みなさんにご披露します。そんな人が好きだったのが、なんとイギリスの詩人の言葉だったんですよ。ワーズワースっていうんですけど。「低きにありて、高きを思う」……。そんな言葉が好きな人でした。

(フリーライター 伊藤誠之介)