東京大学大学院の研究者から転身した、異色の一本釣り漁師がいる。大阪府生まれの35歳、銭本慧(ぜにもと・けい)さんだ。東大大学院の博士課程で海洋研究に取り組んでいたが、一念発起して漁師になった。

 ただし、魚をとるだけではない。長崎県の離島「対馬」でとれた鮮魚を都内のレストランなどに直販するスタートアップ企業の経営者でもある。血抜きなど、鮮度を維持する技術が評価され、第一線で活躍する東京都内のシェフらも厚い信頼を寄せている。

 そんな銭本さんが見据えるのは、日本の水産業の再生、そして、漁業を核にした観光産業「ブルーツーリズム」による地域活性化だ。

●釣り好きが高じて水産学部に

 きっかけは、少年時代から大好きな釣りを続けたいという素朴な思いだった。両親が寝静まったのを見計らって、夜な夜な海釣りに出かけた中高生時代。志望大学も「釣ったことのない魚がいる場所に」という思いから、長崎大学水産学部を選んだ。在学中、日本の川から泳ぎ出て、何千キロも南方の海で産卵するウナギの生態に魅せられた。詳しく研究するため、東大大気海洋研究所に進んだ。

 しかし、水産研究を進めるうちに、衰退傾向にある日本の水産業に強い危機感を抱くようになり、「自分でも何か直接行動できないか」と考えるようになった。研究ばかりの生活にも行き詰まりを感じ、「水産資源が減少する理由を解明するより、減った資源を増やす方が重要では」との思いが募った。

 「研究室にこもるより、釣りを存分にできる現場で生きていきたい。そうだ、漁師になろう」

 釣り好きが高じて研究者への道を選んだが、初心に立ち返って人生を考え直した結果、好きな魚釣りで暮らしていく道を選んだのだ。

 でも、いったいどこで、どうやって? 九州各地の漁港を訪ね歩き、ほれ込んだのは長崎県対馬市北西部の志多留地区。かつて民俗学者の宮本常一が調査した場所としても知られ、古代からの景観や風俗が残る自然豊かな地域だ。「いなサバ」としてブランド化を図っているマサバのおいしさと大きさにも感動し、「高級食材として販路開拓できるのでは」と夢を描いた。

●「血抜き」「神経締め」で鮮度維持を徹底

 地元の漁業関係者とも良好な関係を築くため、対馬市に移住して1年間は漁業者としてではなく、地域活性化を目的としたNPOで働いた。そして、2016年4月、研究職時代の後輩とともに合同会社「フラットアワー」を設立した。

 銭本さんには、一本釣りしてきた魚を鮮度の良い状態で大都市のレストランに送ることができれば高く売れるのではないか、という目算があった。実際、対馬近海では立派な魚がよく釣れる。特に「いなサバ」は500グラム以上で、2キロを超える大物もいる。

 離島では消費者の手元に届くまで時間も費用もかかるが、鮮度維持については、低温配送の「クール便」を使うことで解決した。また、直径約1ミリのワイヤーを魚の背骨に沿って入れ、神経を取り出す「神経締め」を行うことで、死後硬直を防ぎ、うまみを長持ちさせている。血抜きも徹底して行い、生臭さを残さないようにしている。

 いずれも根気のいる作業だが、現在の流通体制では、買い取り価格に反映されない。そのため、処理した魚の価値を理解してもらえるレストランに直販している。

 ただ、新しい流通モデルを作ることで、地域の漁業関係者とのあつれきが生じる恐れもある。そこで、地元への気配りも怠らないように心掛けている。実際、国内ではまだ珍しい取り組みに対し、懐疑的な住民も少なからずいる。無用な衝突を極力防ぎ、漁業に対する自分の信念を理解してもらいたいと考えている。来島後1年間は周囲の住民との親睦を深めようと、1カ月に1回の懇親会を欠かさなかったという。

 一方、顧客には季節の変わり目に手紙を送り続けるなど、地道な努力を続けている。

 銭本さんの魚の愛用者は、主に首都圏のレストランだ。自然派ワインと日本酒を多く取りそろえる高価格帯の居酒屋「ル・ジャングレ」(東京都千代田区)のオーナーシェフ、有沢貴司さん(36)は「鮮度維持のための処理が良く、長期熟成向きの食材として評価している」と語った。店内の大型冷蔵庫でうまみが増すのを待ち、お通しの刺身などとして提供している。

 ただ、「銭本さんの会社の商材は、決して“使いやすい”わけではない」とも指摘する。1万〜3万円程度の鮮魚セットを購入しているが、釣果次第で魚種が変わるため、提供する料理も刺身から鍋物まで臨機応変な対応を迫られる。それでも使い続けるのは、単純に魚がおいしいという理由だけではない。料理店経営者として、おいしい魚を持続可能な形で客に提供し続けられるようにするためには、銭本さんたちの取り組みが大切で、「彼らの事業が大きくなるまで一緒にやっていきたい」と考えているからだという。

●漁獲量は最盛期の3分の1 衰退する水産業

 多くの顧客に支えられながら事業を続けている銭本さんが常に心掛けていることがある。それは「魚をとりすぎない」ということだ。

 日本の漁業は長年、職人肌の漁師が互いに競い合う「早い者勝ち方式」が主流だった。しかし銭本さんは、他国のように、資源管理の観点から漁獲制限を強める必要があると考えている。

 研究の傍ら、衰退傾向にある日本の水産業が気になっていたことから、資源管理型漁業の実現に向けて、(1)漁獲効率が低い一本釣りを心掛ける(網を使わない)、(2)血抜きや神経締めなど鮮度を維持する処理を1匹ずつ行い、高付加価値化する、(3)漁業だけでなく、それを支える物流など周辺産業の維持にも取り組み、小さくても強い地域経済エコシステムを構築する――といった目標を掲げ、実践している。

 水産庁によると、日本の漁獲量は最盛期の1984年の約3分の1、年間430万トンにまで落ち込んでいる。漁業者の高齢化や、乱獲による資源枯渇が主な原因という。ただ、海外に目を転じれば、漁業は成長産業だ。漁獲量や養殖業生産量は右肩上がりに増えていて、中国などの台頭も著しい。日本政府もようやく重い腰を上げた。2018年、70年ぶりに漁業法を改正し、国際水準の漁獲規制に踏み出した。

 改正法には、法律に基づき漁獲上限を定める漁獲可能量(TAC)制度を漁業法に統合する規定が盛り込まれた。銭本さんは「法改正で資源管理の視点が入ったのは良いことだと思う」と評価する。科学的な根拠に基づいて適切な漁獲可能量を決められるか、そして、そのような魚種を増やせるか、という点に注目していると説明し、「決められた漁獲量を漁業現場が守りつつ、安定した収入を確保できる体制をどのように構築するかが課題だ」と指摘した。

●漁業を中核にした観光客誘致へ

 将来的には漁業に加え、民泊も手掛けることを検討している。漁業の合間に仕事をすることで、収入の増加と消費者の理解を深める狙いがある。島内への観光客の呼び込みにもつながるため、漁業集落を抱える地域全体にとってもプラスとなる。

 国内各地ではさまざまな地域活性化の取り組みが行われ、不調に終わったケースも多々ある。銭本さんは「自分たちの取り組みは少しずつ認知され、インターンシップや視察、体験のニーズが増えてきている」と、事業の滑り出しが順調であることを強調した。現在は、訪れた人たちに周囲の民泊に宿泊してもらっているが、地域に宿泊施設が少なく、対応できないこともある。「ゲストハウスを設けるなどして受け入れ態勢を整えたい」と漁業を中核にした観光客誘致の青写真を描く。

 対馬北部には濃紺の豊かな漁場が広がり、魚種も抱負だ。その自然環境を体験してもらうための手段として、船釣りは最適な選択肢の一つと考えている。漁業に加えて、血抜きや神経抜きといった鮮度保持の手法、魚のおろし方などの講習も体験メニューにすることで、来島客を飽きさせないブルーツーリズムが展開できそうだ。

 「こうした体験を通して、『持続可能な海との関係づくり』を感じてもらえるようにしたい」。銭本さんの夢は大きく広がる。

(甲斐誠)