環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏の動向が報じられる度に、ネット上では、日本を含む世界中の人々が擁護派と否定派に分かれて喧喧囂囂(けんけんごうごう)となるのが日常風景となっています。擁護派は「地球温暖化の危機」を効果的に訴える宣伝塔としての存在感を評価し、否定派は現代の複雑なエネルギー問題を弁えない目立ちたがり屋の「生意気な小娘」としか見ていません。

 しかし両者とも意外と目を通していないのが、家族自身によって書かれた共著本『グレタ たったひとりのストライキ』(羽根由訳、海と月社)です。同書はかなり普遍的な問題を示したテキストです。赤裸々なファミリーヒストリーとして興味深い内容であるだけにとどまらず、わたしたちが影響を免れない「終末論的な言説」との向き合い方について重要な暗示をしているからです。

●環境問題が「壊れかけた家族関係」再生

 同書には(発達障害を持つ2人の娘の子育てに悩む)「壊れかけた家族」が「地球温暖化の危機」を共有し、ともに闘争することによって「再生」するプロセスが切々たる筆致で綴(つづ)られています。例えば以下のくだり。

 わが子が何年も他人と話をせず、しかも食事に制限があり、数ヵ所の決まった場所で、限られたものしか食べられない。その状態が何年も続いたあと、すべてのごちゃごちゃが突然消失したとしたら、親はまるでおとぎ話か魔法のように思うだろう。その喜びはどれほど大きいことか。

 これはグレタ・トゥーンベリ氏が「気候のための学校ストライキ」を開始した後の変化について両親が抱いた率直な感想です。学校ストライキが一躍世間の注目を集めるようになり、「躁転」(抑うつ状態から躁状態になること)したみたいに元気になったのです。それに狂喜した両親の心中がよく分かる感動的なコメントではないでしょうか。

 これは一種の美談のようにも読めますが、トゥーンベリ家だけの特殊な話に留めておくにはもったいない、誰にでも生じ得る「心理的なモデル」を提供しています。「不安の時代」の新機軸といったところでしょうか。

●温暖化こそ最も現実味のある「世界の終わり」

 ハリウッドのパニック映画では、来るべき巨大災害、破滅的事象を前に、バラバラだった家族が(一時的にでも)和解し、同じ目的に向かって団結するのが常道となっています。ピンチはチャンスというわけです。

 トゥーンベリ家の場合は、長女が発した「地球温暖化の危機」に両親らが蒙(もう)を啓(ひら)かれ、一家に浸透していく構図になっています。良い見方をすれば、「大きな危機」を前に家族同士のいざこざなどの「小さな危機」が脇に押しやられ、物事の関心が大局的な舞台へと移ることであり、非日常性が家族の絆を強めます。悪い見方をすれば、「内部の問題」に「外部の問題」を持ち出すことで、「棚上げ」もしくは「先送り」することであり、家族を保全するためには「大きな危機」が存在し続ける必要があります。

 思えば、冷戦期を通じて最も可能性のある「世界の終わり」は核戦争でした。

 1960年代初頭に発表された三島由紀夫の長編小説『美しい星』(新潮文庫)の主人公である大杉家の人々は、いわば「大きな危機」の申し子です。自分たちを宇宙人と信じ、人類のために核戦争を防ごうと腐心します。宇宙人というアイデンティティーが、個人の集まりにすぎない家族に、辛うじて奇跡的な調和をもたらす様子が描かれます。

 つまり、周辺に追いやられた立場の人間を英雄的な役割に押し上げ、社会的な承認とともに自尊感情の回復が得られる側面があるのです。大杉家が当時の米ソ首脳に手紙を送るエピソードなどが象徴的です。

 グレタ・トゥーンベリ氏が「気候危機って、未来を修復できない全面核戦争みたいなもの」(前掲書)と断言した通り、今や最も現実味のある「世界の終わり」は「地球温暖化の危機」です。

●終末論は退屈な日常を活性化する“エンタメ”

 なぜなら、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の一連の報告書が「大きな危機」を裏付けているからです。早ければ2040年(わずか20年後!)に“大惨事”が起こると警告しています。産業革命以前に比べて地球の気温が1.5℃上昇した場合、世界は大規模な食糧危機や山火事に見舞われ、大量のサンゴ礁が消滅すると記しています。多数の死者を出し、何億匹もの動物が犠牲になっているとされるオーストラリアの森林火災は、まさにその黙示録的な前兆となるわけです。

 そのため、最近やたらと終末論が目に付きます。筆者は以前その界隈(かいわい)に足を突っ込んでいたことがありますが、終末論は、それを支持する人々にとっては退屈な日常を活性化するエンタメであり、刺激剤なのです。終末論に染まってしまった人の多くは物事を変えようとはしません。むしろホームシアタームービーを楽しむように「世界の終わり」を待望します。

 アメリカによるイラン革命防衛隊の司令官殺害で、中東地域での武力衝突の緊張が高まり、世界各国のソーシャルメディアで「World War3(第三次世界大戦)」がトレンド入りしましたが、少なくない人々が「世界の終わり」が明日にでも来るのかと色めき立ったのです。「クソみたいな毎日」に嫌気が差している者ならなおさらでしょう。

 トゥーンベリ家の人々は、あくまで現状を軌道修正するために「世界の終わり」を強調する立場ですが、終末論に耽溺(たんでき)する人々はむしろ現状を諦観して“大惨事”をスペクタクルとして消費するのです。

 つまり、「世界の終わり」をあおる不安マーケティングを展開し過ぎると、かえって「何をしても無意味」だと考えて享楽的になったり、「エコ不安症」のように抑うつ的な傾向が拡大されたりすることが懸念されるのです。

 本来であれば「温室効果ガスの削減」とともに議論されるべき「温暖化への適応」が放置され、飢餓や貧困の深刻化といった“人災”にも発展しかねません。わたしたちの生命に直結する問題であっても、見た目が地味な政策は軽視されがちになるのです。

●「建設的な議論」より「壊滅的な未来」希求

 そこに登場するのは、「世界の終わり」を前提にした各種ムーブメントやビジネスでしょう。「気候危機が続くなら子どもは生まない」と宣言する女性がZ世代を中心に表れているのが示唆的です。カナダの女子大学生が始めたキャンペーン「#NoFutureNoChildren(未来がなければ子どもは持たない)」は、およそ1カ月の間に5000人以上が賛同しています。「エコ不安症」を背景にした典型的なリアクションのように思えます。

 これは人口減少社会を正当化するどころか、「生まない方が地球環境にとって倫理的だ」という価値の反転です。「出産は倫理に背き、多産は悪」という反出生主義のリバイバルといえそうです。

 「気候危機による暗黒の未来」を想定した人生観、ライフスタイルの人々に向けたサービスや商品が溢れ、主として先進国で消費されることが考えられます。「免罪符」的な要素があれば大ヒットは必至でしょう。

 もちろん環境危機は“リアル”です。妄想ではありません。しかし予測には不確定要素が多いのも事実であり、「終末論的シナリオ」が唯一の正解とも言い切れません。この“振れ幅”が商機の発生源にもなります。逆に言えば、「終末論的シナリオ」を頭ごなしに否定するのは困難であり、最悪の事態が起こり得るビジョンが優勢になる嫌いがあります。絶滅前の自然を堪能するエコツーリズムが活況を呈すことは想像に難しくありません。

 最初に書いたように「大きな危機」への積極的な関わりは、個人が抱えるさまざまな困難といった「実存の問題」の解消と髪一重です。誰もがトゥーンベリ家のような綱渡りをできるわけではありません。

 今後、オーストラリアの森林火災のような出来事が発生すると、その都度「終末論スイッチ」が入ってしまう人々が続出するでしょう。建設的な議論よりも壊滅的な未来に思考を奪われた人々です。わたしたちも遅かれ早かれ「気候危機によるストレス」にさらされ、気付けば思いもしなかった行動を取っているかもしれません。“環境少女”を巡る対立は序章のそのまた序章にすぎないのです。

真鍋厚(まなべ あつし/評論家)