法務関連書籍の出版社「日本法令」が発売した「内定辞退セット」が就活生の間で爆発的に売れている。これは、例文に便箋を重ねて写経のようになぞるだけで内定辞退の手紙が完成してしまうキットと、内定辞退の方法とマナーを解説したセミナー動画(Webコンテンツ)がセットになったもので、初版の5000部は完売したという。

 当該セット監修者は「昨今の売り手市場で複数の内定を得る求職者も珍しくないが、若者を中心に『内定を辞退したいがどうすればよいか分からない』『内定辞退を言い出しにくい』などと悩む人が増えている。対面コミュニケーションを苦手とする人の役に立ってほしい」と開発の経緯について説明している。

 この件はネットを中心に報道され、賛否両論さまざまな反響が見られた。とはいえ「内定辞退セット」自体については、「書き損じもなく、文面を考える必要もないので良い」「企業側も定型文の『お祈りメール』で不採用通知を送っているのだから、求職者側も簡便に済ませて問題ない」といった好意的な意見が多かったようだ。

 一方で「否」の意見については、「例文の丸写しでは気持ちが伝わらない。自分の言葉で書くべき」といった内定辞退セットそのものに対する否定意見は少数にとどまり、もっぱら「企業側の反応を気にしすぎ」「そもそも『書類は手書きで』とか『電話やメールよりも直接会って説明すべき』といった、就活におけるマナー自体が疑問」という趣旨の意見が多く見受けられた。

●直接出向くことは本当に「マナー」か

 就活におけるマナーは必要派と不要派で意見が対立しやすく、度々話題にのぼっては議論になることが多い。今般の「内定辞退時におけるマナー」問題についても、2019年5月に日経産業新聞に掲載されたコラムが就活生を中心に「謎マナーすぎる」などと批判されたことが記憶に新しい。

 話題になったのは、就活生の悩みを解決する連載企画「就活探偵団」の記事「内定辞退の正しい伝え方、『直接会って、まず感謝』を」。記事内では都内私立大学で開催された「内定獲得後のマナーセミナー」の様子を紹介していたのだが、そこで指導されていた内容が「自分を選んでくれた企業に感謝の心を持ちましょう」「メールの送りっぱなしや電話で完結してはダメ。必ずその企業に足を運ぶことが重要」といったものであった。特に「企業に直接出向く」という行為に対して、就活生のみならず社会人まで違和感を持つ声が多く挙がったのだ。

 ちなみに、今般の内定辞退セットの反響報道に際しても、先出のセット監修者はSNS上で「辞退はメールよりも丁寧に手紙で伝えてほしい!」というようなコメントをしている。では実際のところ、当の採用担当者側はそこまで応募者のマナーを厳しく判断しているものなのだろうか。

●採用担当者も「迷惑」している?

 筆者の周囲や、ネット上の反応においても、採用関係者側の見解はほぼ同様で「わざわざ訪問されても困る」「辞退するならメールでも電話でもいいから、とにかく早く教えてほしい」というものが目立っている。

 そもそも、採用は大企業であっても実質的には数人規模の少人数でまわしていることが一般的であり、採用業務と並行して人事労務関連の仕事に忙殺されていることがほとんどだ。そんな中、辞退する人がわざわざ尋ねてきて感謝の気持ちを伝えられたとしたらどうだろうか。「丁寧なマナーの持ち主だ!」と評価されるよりも「特に他に話すこともないしなあ……」「早く仕事に戻りたい……」などと、困惑されて終わりだろう。

 また、人事部門では採用目標人数を追って仕事をしている企業も多いため、早めに辞退を伝えてくれればその分、他の人に内定を出せるなど、補充のためのアクションも早く起こせることになる。マナーを重視するあまりに訪問機会をうかがったり、手紙を書くために時間をロスしたりしてしまい、結果的に採用人数が目標におよばす欠員になってしまうことの方が、採用担当者としては迷惑なのだ。

 ちなみに、採用担当者の本音としては「メールでも電話でも手段は問わない」ものの、「どちらかといえば電話がありがたい」という意見が多かった。「その場で本人確認ができるため『なりすまし』による被害を防げる」「会話の中で辞退者が選んだ企業名や辞退理由、他社の選考手法の情報を知れて、採用を見直す材料をもらえるから」といったことが理由のようだ。マナーセミナー講師が言うような「内定をくれた会社への感謝」を伝えるなら、マナーに配慮するよりも「有益な情報提供」をすることこそ、辞退者のできる貢献なのかもしれない。

●たびたび話題になる「就活謎マナー」

 本来、採用選考において判断されるのは応募者の人柄や経験実績、思考や行動パターンといった中身であるはずだが、ちまたにあふれる「面接突破アドバイス」には「応募書類は手書きか否か」「ドアノックの回数」「お辞儀の角度」……など、本質からズレたようなマナー指導が散見される。もちろん、相手に失礼にならない程度のマナーは意識すべきだが、「直立時の爪先間隔は○cm開けるべき」というような、あまりに枝葉末節にこだわる指導に対しては「本当にそこにエネルギーを割くべきか?」と大いに疑問を抱かざるを得ない。

 私はこれら量産される無意味とも思える過剰なマナーを「就活謎マナー」と総称し、かねてより問題視してきた。とくに、働く側が持つ権利を使わせず、結果として違法ブラック企業に忖度(そんたく)するかのような対応が「マナー」として教えられている状況には強いもどかしさを感じている。その双璧ともいえるのが次の2点だ。

●就活謎マナーその1:面接で待遇について質問するのはNG

「面接で給与や休暇、福利厚生について質問すると、仕事への興味が薄いと捉えられます」

「待遇に関する質問はマイナス印象を持たれる可能性があるので控えるようにしましょう」

 同様のアドバイスは就活マニュアル本や転職サイトのみならず、教育現場においてさえも普通になされている。もちろん、面接で待遇「しか」質問しないとか、応募先のWebサイトに書かれているような情報を確認せずに質問する、といった行為はさすがにナンセンスだ。しかし、「待遇について確認するのはNG」というメッセージはそれこそNGだと筆者は考える。こんな前時代的なアドバイスによって「給与や休日について胸を張って説明できないようなブラック企業をなぜ擁護するのか?」と大いに疑問である。

 そもそも、給与や労働時間などの労働条件は、企業側が採用時に明示しなければならないと労働基準法で定められている。知ることは労働者の権利であるし、求職者にとっても大切な情報なのだから、遠慮なく確認すべきなのだ。

 労働環境が整った企業であれば、自社の給与水準や労働環境について自信をもって説明できるはずだし、昨今では「当社の育休復職率は100%です!」などと企業のアピールポイントにもなる。逆に、こんな質問程度で「マナー違反だ!」「こいつはやる気がないのか」などと逆上するような企業は、満足な給与も労働環境も提供できない狭量な会社と判断してよい。こうした質問を嫌がるのはブラック企業だけなのだ。

●就活謎マナーその2:つらいことがあってもすぐに辞めるのはNG

「どんな会社でも最初は大変なことばかり。まずは与えられた環境で頑張りましょう」

「石の上にも3年といいます。すぐ辞めてしまうと『辞めグセ』がつきますよ」

 このアドバイス自体には、確かに一理ある。どんな優良企業に入ったところで、相性の合わない上司につくこともあるし、仕事の進めかたや人間関係の対処についてもある程度場数を踏んでおかないと、転職先においても同じような悩みを抱えることになりかねない。

 しかし、入った先が明らかに悪意のある違法なブラック企業なら話は別だ。そういった会社で労働者はまともな教育を受ける機会もなく、単なる「コマ」として使いつぶされ、場合によっては違法行為の片棒を担がされてしまうこともある。頑張ったところで身につくのはせいぜい「理不尽な環境への耐性」程度であり、労働市場で生かせるようなスキルは得られないだろう。「今いるところはそもそも座る価値のある“石”なのか?」と確認し、もしそうでなければ、貴重な人生を無駄にすることがないよう、早めに辞める判断をすることも重要なのだ。

 ちなみに、一度転職してしまうと次に転職する際の心理的なハードルが下がることは確かである。それを「辞めグセ」と表現することもできるが、個人的には「嫌なら辞めればいい」という安心感、とポジティブに表現したいところだ。もう後がない……と悲壮な覚悟で仕事するよりはよっぽど健康的だろう。ゲームで例えるならば、失敗してもまた復活できる「残りライフ」が増えるようなイメージである。仕事はあくまで人生の一部でしかない。それくらい気軽に考えてもいいのではなかろうか。

●謎マナーが企業をむしばんでいる

 よくよく考えてみれば、求人サイトも入社後のマナー研修も、お金を出すのは企業側だ。紹介したような、企業にとって都合のいい忖度が「マナー」という形で代々伝えられていく構図はブラック企業がいまだになくならないこの国でなるべくしてなったものであろう。しかし「稟議書の捺印(なついん)は上司に向けて傾ける」とか「宴席のお酌におけるとっくりの注ぎ口の向き」など、何ら本質的とはいえないマナーにこだわり過ぎてしまうことで、かえって業務効率や生産性を下げているなら本末転倒だ。

 企業側のデメリットという点では、先述した2つの「謎マナー」も同様にリスク要因になり得る。待遇や休日について確認しないまま入社した従業員が、労働環境が給与の割に合わず、「こんなはずじゃなかった……」と早期離職に至ってしまう可能性がある。それだけでなく、つらい環境に無理やり耐えることで心身ともに疲弊してしまい、病気や休職につながったり、「株式会社××は滅私奉公を強要し、辞めさせてくれないブラック企業です」などとネガティブな口コミが転職サイト上で拡散したりしてしまうかもしれないのだから。

●謎マナーで得するのは誰か

 働き方改革関連法が施行され、おかしい企業には「おかしい」と声を上げられる時代になった。今こそ、求職者と企業双方にデメリットがあり、得をするのはマナー講師くらい……というような謎マナーの無意味さをみんなで共有し、撲滅していこうではないか。

 少なくとも採用選考においては、「マナーを全く気にしない面接官」はいないだろうが、「マナーしか気にしない面接官」もいない。もしいたとしたら、面接官失格だ。「無礼」でさえなければよいので、マナーよりも中身を磨いて選考に臨むことをお勧めしたい。

 一方でマナー講師の皆さまにおかれては、「○○はマナー違反」「◇◇なんて非常識」とささいなことをあげつらうよりも、「体調が悪いのに無理やり出社すること」「定時直前になって仕事を依頼すること」「固辞する人に無理やり、お酒やカラオケを勧めること」「休暇中の社員に業務関連の問い合わせをすること」……など、より現実的に起こり得るマナー違反について厳しく指導していただきたいものである。

著者プロフィール・新田龍(にったりょう)

働き方改革総合研究所株式会社 代表取締役/ブラック企業アナリスト

早稲田大学卒業後、複数の上場企業で事業企画、営業管理職、コンサルタント、人事採用担当職などを歴任。2007年、働き方改革総合研究所株式会社設立。労働環境改善による企業価値向上のコンサルティングと、ブラック企業/ブラック社員関連のトラブル解決を手掛ける。またTV、新聞など各種メディアでもコメント。著書に「ワタミの失敗〜『善意の会社』がブラック企業と呼ばれた構造」(KADOKAWA)他多数。