「はい、おしりの骨に手を当てて腿裏(ももうら)を伸ばして―」

 10月の日曜の朝、千葉県の東西線妙典駅近くの妙典公園で25人ほどがヨガに励んでいた。秋晴れの下、東西線が通る音が響いている。屋内でのスポーツが制限される中、屋外で思い切り身体を動かすことができ、参加者は笑顔に包まれていた。

 この日レッスンをしていたフリーインストラクターのKEIKOさんは「コロナ禍なので、人が集まる場所でヨガをするのが難しくなっています。公園なども使用許可が取りづらくなっていますね。そんな中、太陽の下、伸びやかな気持ちでレッスンができると自分自身も気持ちよくレッスンができます。沈んだ気持ちでいるお客さまの心も、ヨガを通して少しでも解放してもらえればうれしいですね」とほほ笑む。

●鉄道会社がヨガスクールを経営

 皆が励んでいたのは月1回ほど妙典公園で実施されている「パークヨガ」だ。開催しているのはヨガやボルダリングなどアウトドアフィットネスを提供する施設「greener」のメンバー。実はgreenerは東京地下鉄(東京メトロ)が、フィットネス事業を手掛けるBEACH TOWN(横浜市)と協力して運営しているのだ。メトロが事業主体となり、BEACH TOWNにgreenerの運営を委託している。

 ピラティスや、ランニングプログラムなど多様なプログラムを提供していて、通い放題の月額会員だと9500円(以下、税別)。ビジター利用だと2500円ほどで、ボルダリングのフリー会員は男性1500円、女性会員1000円(登録料は別)など利用者のニーズに応じて選べるようにしている。施設内のロッカーやシャワーも会員は無料、非会員にも有料で提供していて、平日は午前9時から午後10時まで営業中だ。

 同施設では1日にスタジオでのヨガプログラムを5本ほど、ボルダリングやウォーキングも1本ほど実施している。入ってすぐにカフェラウンジもあり、これは会員以外にも開放した。

●新規事業を広めるのが狙い

 東京メトロは社員提案によって新規事業を広めていく社内制度「メトロのたまご」を2013年秋から始めていて、greenerは同制度によって実現した新規事業の第1弾だ。当時入社3年目だった花木麻帆さん(東京メトロ企業価値創造部に所属)がプレゼンし、現在も事業を担う。2019年4月からメトロが所有する妙典駅の高架下でgreenerを経営している。土地は同社が所有しているものだが、初期費用として建物代が掛かった。

 鉄道会社である東京メトロがなぜこのような事業を営んでいるのか。パークヨガに足を運んでいた同社取締役の小坂彰洋経営企画本部副本部長に狙いを聞くと「新規事業の創出と挑戦する企業風土の醸成が主な狙いです。greenerは東西線沿線の住民の方々に溶け込める形で事業を実施していて、当社のブランド価値向上にも寄与しています」と胸を張った。

 「メトロのたまご」が創設される以前も業務効率化を目的とした社内提案制度はあった。その上で、04年の民営化から約10年をへた13年秋に、鉄道事業のみならず失敗も含めたさまざまな経験やノウハウを蓄積することにより、人材を始めとする経営基盤の底上げを図ることを狙いとして創設したという。

 現在、同制度の対象者は、東京メトロ社員で、年齢や職種、役職に関する制限はない。いつでも提案を受け付けていて、都度審査をする。過去約7年間で最終審査を通過した提案は、「greener」の1件だけだ。事業以外には18年度にGood Design賞を受賞したエレベータールートの有無が分かるWebアプリ「ベビーメトロ」(2019年本サービス化)などがある。

 なぜ鉄道会社であるメトロが新規事業に取り組んでいかなければならないのか。東京地下鉄取締役の小坂氏に尋ねるとこんな答えが返ってきた。

 「コロナ禍以前から、単身世帯の増加や働き方の変革によって人々の『つながり方』が変化し、枠にとらわれないつながり方が生まれてきておりました。当社では、さまざまな目的で首都東京に集う人たちが、新たな強いつながりを持ち、持続的に発展していくことを支え、東京に活力を生み出す事業を創造していきたいと考えております」

●児童館のような役割

 同施設は主にヨガとボルダリングを教える一方、毎月第4土日には野菜などを売るマルシェを開いたり、前述したカフェ事業を営んでいたり、地域の人々の生活に溶け込む仕掛けが施されている。記者は午前中から午後にかけてこのカフェで過ごしたが、多くの家族連れが来店しボルダリングやヨガに励んでいた。

 ボルダリングは原則小学生以上が可能になっていて、保育園児連れの家族が来店した際には「(ボルダリングは)小学生以上からなんですー。せっかく来てくれたからアメ持って行って―」とgreenerのマネジャーでBEACH TOWN社員の白川千佳子さんが声をかけていた。昔、地元の児童館で見たような光景で、同施設がそれに近い役割を果たしているとも感じた。

 白川さんは「(BEACH TOWNが運営する他の施設に比べても)住民の方との距離が近く、とても親しみやすく穏やかな雰囲気がある」と話す。同施設には子ども向けのかけっこ教室もあり、若い家族連れが参加しやすい仕組みが設計されていた。またカフェのコーヒーは隣の行徳駅近くのコーヒー店で特注したオリジナルブレンド豆をひいて提供している。マルシェに出店していたプラスナチュリ(千葉県船橋市)のから揚げも甘酒で仕込みをするなどこだわりが感じられた。

 東京メトロの花木さんは「地域の皆さんに喜んでもらいたいと思って始めたので、できる限り地元に根差すよう心掛けています」と語る。そのおおもとには小坂取締役が言うように、greener自体が沿線の地域住民に溶け込みながら価値を提供するという考え方があった。

●高架下の遊休地を有効活用 「駐車場以外に」

 花木さんにgreenerを提案した際の動機を聞くと「もともとは遊休地の有効活用というコンセプトで考え始めました。沿線の方々に使っていただける生活サービスをやりたかったのです」と教えてくれた。

 花木さんはもともと「一日にメトロを利用する700万人以上の方々にすてきなことを仕掛けたい」という思いで入社を決めたという。入社1年目の研修で高架下の土地が駐車場に多く使われているのを目にしていた。「せっかくなら沿線住民の生活の豊かさに寄与できるものにしたい」。そう思った花木さんは「メトロのたまご」で提案し、ボルダリングとヨガができるフィットネス事業を立ち上げた。妙典の高架下は駅から近く自然環境が多い。若いファミリー層にもそうした地域の自然を体感してもらいたいと考えたのだ。

 同社の経営陣としても沿線住民の健康に寄与することは、やがて鉄道事業にも良い影響が出てくると考えた。年間20〜30件ほど寄せられる提案の中、見事に花木さんの提案が採択され、運営を任されることになる。花木さんは抱負を話す。

 「今はgreenerに専任で関わっています。パークヨガでは市川市さんにも後援をいただいておりますが、その際の調整など外部との渉外も大事な仕事です。告知物製作や収支の確認など幅広く業務にあたっています。これからも長期的に地域に根差していくように事業を運営していきます。いつの日か地域の方々に『妙典といえばgreener』と思ってもらえるような場所にしたいです」

●課題は新規顧客の獲得

 花木さんに今後の課題を問うと「やはり新規顧客を増やすことです。コロナ禍で顧客も減少傾向にあるので、対策なども十分に行って盛り上げていきたい」と答えた。冒頭紹介したパークヨガは無料で提供していて、既存顧客の満足度向上を主眼に置いている。一方で、新規に参加する人もいるため、回り回って新規顧客の獲得にもつながりそうな取り組みだと感じた。

 コロナ禍では屋内の人数制限がどうしても必要になってくる。同施設も日本フィットネス産業協会の指針で、スタジオの定員30人のところを20人で運営している。

 東京商工リサーチの「フィットネスクラブ」の企業倒産に関するデータを見ると、2020年1月に2000万円だった倒産企業の負債総額が3月には14億円にまで膨らんでいる。またスイミング、ヨガ、テニススクールなど、スポーツを教授することを目的とした事業所を指す「スポーツ・健康授業」では4月に1800万円だった負債総額が7月には3億1800万円まで増えた。

 メトロ利用者にすてきなことを仕掛けたい――。花木さんが入社時に抱いていた夢は花開き、コロナ禍で新規事業に奮闘している。ここからその花を咲かせ続けるためにどんな取り組みをしていくのか。

(アイティメディア 今野大一)