緊急事態宣言が発令され、再び、不安が拡大しています。

 特に雇用や賃金の不安は大きく、「この先、お給料は元に戻るのか?」「景気が回復すれば、賃金は上がるのか?」と心配する声があちこちから聞こえています。

 結論から言うと……「いったん下がった賃金が再び上がるのは厳しい」と言わざるを得ません。

 これまで日本企業は収益を働き手に還元せずに、溜め込んできました。OECD(経済協力開発機構)加盟諸国の統計では、主要13カ国の1994年と2018年の名目賃金上昇率は日本だけがマイナス4.54%です。四半世紀前と比べて、名目賃金は日本だけが減っているのです。

 しかも、日本の実質の最低賃金はここ10年で20%上がったのに、最低賃金レベルで働く人も4倍増えてしまいました。07年には最低賃金=719円に近い、時給800円未満の人は7万2000人でした。ところが、17年には最低賃金=932円に近い、時給1000円未満の人は27万5000人。

 つまり、最低賃金を国が上げたから、しぶしぶ企業は賃金を上げたのであって、それがなければもっと賃金を下げるつもりだったかもしれないのです。「いざなぎ景気を超えた!」と、内閣府が正式に判定したにもかかわらず、です。その結果、最低賃金レベルで雇われる若者が増え、いわゆるワーキングプアが増えました。

 徹底的に賃金を安く抑えることで生産性を上げ、「内部留保」を増やす。このような日本企業のやり方は、世界から批判されてきました。

 ところが、今回のコロナで「内部留保肯定説」なるものが出てきているのです。つまり、「内部留保が防波堤になり、コロナの悪影響を最低限に抑えられ、雇用を維持することに役立った」と。

●内部留保が世界の潮流になるかもしれない

 実際、これまで政府は「賃金を上げろ!」「設備投資しろ!」と企業に訴えてきましたが、20年10月30日の閣議後の記者会見で麻生太郎財務大臣は、「2019年度法人企業統計調査で企業の内部留保が8年連続過去最高となったことについてどう思うか?」と記者に問われてこう答えています。

 「内部留保がやたら厚くなけりゃ今回のコロナ対応はもっときつかったろうな。財務大臣の口車に乗って設備投資しなくてよかったと思っている経営者もいるんじゃないか」(毎日新聞2020年10月30日)

 まぁ、非正規を切りまくり、希望退職を募りまくっているのに、「???」という気がしなくもありませんが、専門家の中からは「内部留保が世界の潮流になるかも」という声が上がっているのです。

 いずれにせよ、人はいったん手に入れた便利さは手放さないし、コストカットは底なし沼のようなもの。どんなに学者が、「人件費を削ることが長期的には企業の競争力を低下させ、経営者の決断の中で最もまずいものの元凶であることは歴史を振り返れば分かる」と説いても聞く耳をもちません。

 それは日本企業が低賃金の非正規を増やし、もっともっと安い労働力を求めて、外国人労働者を増やし、本来は国際貢献のための「技能実習制度」の実習生まで、安い労働力として雇い続けたことからも明らかです。「賃金はもとに戻らない」――。そう考えるしかないのです。

●生産性を向上させるのは「人」

 新年早々、暗たんたる気分になる話ばかりで申し訳ないのですが、今後は、コストを下げれば下げるだけ、企業の体力は確実に奪われていくでしょう。

 当たり前のことですが、企業を動かしているのは「人」です。おカネが全てではないけれど、おカネは私たちにとって大切なごほうびだし、自分の成果を測る目安にもなります。賃金がちょっとでも上がるだけで、「この会社で頑張って働こう!」とか「いい仕事をしよう!」というモチベーションは高まります。

 そして、働く人がそう思えて初めて、企業の生産性は向上するのです。

 言わずもがなコロナ後は、コロナ禍での社会経済の混乱によって今まで以上に育児や教育、医療などの社会保険料の負担が重くのしかかります。この先も少子高齢化の傾向は変わりませんし、2025年からは、4人に1人が75歳以上になる時代に突入していきます。

 限られた数の現役世代の労働力を囲い込むためには、賃金を上げるしかない。すでに転職が当たり前になっているので、働く人は「きちんと給料をくれる会社」を選ぶようになるでしょう。

●働く人の心身を大切にすれば、企業も健康になる

 「健康職場(healthy work organization)モデル」という考え方があります。これはかつて米労働安全衛生研究所(NIOSH)が提唱したモデルで、「労働者の健康と満足感と、職場の生産性や業績には相互作用があり、互いに強化できる」として、働く人が心身ともに健康であり、仕事に満足して働けるような組織作りを目指せば、働く人たちは能力を発揮することができ、創造性が高まる。それがひいては生産性の向上につながり、結果的に組織の業績に好影響をもたらすことが期待されます。

 業績が良ければ、賃金や処遇にも反映され、彼らの労働意欲もますます高まり、はつらつと仕事をこなすことができる。つまり、「個人の健康=心身の満足感を第一に考えることで、企業も健康になる」のです。

 健康職場モデルは、まさに「人」を重視した働かせ方です。数字は人を大切にすれば必ずついてくる、という「数字の前に人を見よ」ってこと。賃金カット、コストカットは、短期的にみれば「企業を生かす」ことになりますが、長期的にみると全く逆なのです。

 健康職場モデルが提唱されるに至った背景には、「生産性を上げるためには労働者を低賃金で酷使するしかない」という考え方が主流を占め、トップによる「生産性を上げろ!」という指針の下で多くの労働者がメンタルヘルスを損なっていた社会状況がありました。

 残業文化は日本だけでなく欧米にもあり、古くは「会社が生き残るには、従業員にがむしゃらに仕事をしてもらわないとしょせん無理な話」と考える経営者がほとんどだったのです。

 しかし、今、優秀な経営者は「人」を大切にします。

 18年、米アマゾンが最低賃金を時給11ドルから15ドルに上げると発表し、大きな話題となりました。賃金を上げる企業は優秀な人材を魅了します。そこで働く人たちのモチベーションだって高まります。高い賃金の仕事を失いたくなければ「肩たたきをされない」ように、働く人たちはもっともっと頑張ることでしょう。

 企業は厳しいときこそ、「人」に投資し、未来に備える必要があります。こんなときだからこそ、企業は賃上げに取り組むべきです。

 繰り返しますが、おカネが全てではありません。しかし、おカネは人の生きる力を引き出す極めて大切なリソースです。それと同時に、個人の幸福感をも左右するのです。

(河合薫)