100年に一度の大転換期と言われる自動車市場。電動化を進める自動車メーカーの一方で、最初からEVで攻勢をかける新興勢力が続々と誕生している。大企業ゆえの安定感の一方で、既存自動車メーカーは大きな変革を一気に成し遂げることは難しい。対して、新興メーカーは、投資家や消費者の関心を集めるべく、スペックや機能で強烈なインパクトを与える商品を作り上げてくる。

 これまでの市場でひしめき合うライバルたちだけでなく、まったく違った角度から飛び道具を持って参戦してくる新人が続々と登場しているのである。

 20年、30年という年月をかけて徐々にEV化を進めようとしていた自動車メーカーに対して、一気に陳腐化してしまいかねないような刺激的なクルマが新興メーカーから登場するかもしれない。いわば自動車メーカー戦国時代に突入しているのである。はたして、どのブランドが生き残り、どれだけのブランドが淘汰(とうた)されていくのか。

 クルマをどんな基準で選ぶべきか。それは異業種から参入したブランドであっても変わらないはずである。国ごとに登録制度がある以上、安全性や信頼性、耐久性において、その国で定められた品質に達していることが求められる。すなわちクルマは、PCや家電とは決定的に異なる部分がある。それは乗員や周辺の人間の生命を左右する機械だということだ。

 だからこそ我々は、クルマを武器にしてしまうような「あおり運転」はしてはならないし、運転の責任から逃れたいユーザーは完全自動運転の実現を心待ちにしている。しかしながら、タクシーのように完全に他人、あるいは自動運転タクシーのように企業側が運転を監視や制御している場合以外は、ドライバーは完全に運転の責任から逃れることはできないだろう。

 クルマへの責任は、製造者であるメーカーにも求められる。交通事故の9割はドライバーのミスによるものだといわれているが、自動運転が普及すればそうしたミスは減って交通事故全体は激減するだろう。その一方で、残りの1割だった道路環境やクルマ自体が起因の事故は、割合が増えることになる。自動運転システムに問題があったとすれば、自動車メーカーやそれを開発したサプライヤーに責任が及ぶことは間違いない。

●テスラがリコールでタッチパネルの短命ぶりを認める

 クルマがここまで発展し、世の中に受け入れられてきたのは、便利であるからの一言に尽きる。そのためには自動車メーカーが、従来のクルマをどれだけ快適で高い信頼性を確立させてきたか、想像できるだろうか。

 地道な努力を長い時間費やして続けてきた積み重ねが、現在の自動車産業の繁栄につながった。新興EVメーカーのほとんどは、それとは全く違った角度からクルマ作りを行っている。規格化された部品を利用するのは既存の高い信頼性を活用できる方法だが、それだけではユーザーに新しい価値を提案できない。

 最初から富裕層だけを相手にし、環境保全やEVの持つ可能性をアピールして新しいカーライフを提案し、信者を獲得していったのがテスラだ。EVの持つ先進性や圧倒的な加速性能などでオーナーを魅了して、量販車種や商用車部門に進出し、幾度ものピンチを乗り越えながら現在の成功へと到達した話は以前、紹介した。

 その一方で北米市場では、テスラは顧客満足度では主要なブランドでは最下位となるほど、ユーザーは細かなトラブルに見舞われている。そして先日の米国でのリコールは、以前から存在していたテスラの問題点を完全に浮かび上がらせた。

 テスラは量産車のモデル3から、ダッシュボード上には物理スイッチを設けず、大型タッチパネルにすべての操作を集約させた。これによりさまざまな装備を搭載するコストを圧縮できるだけでなく、機能面のアップデートも容易にした。これまでの常識とはかけ離れた斬新なシステムだ。

 システム自体は素晴らしいものであるが、タッチパネル内部の不揮発性メモリ(記憶しておくことができるメモリ)は書き換え回数に限度がある。どちらも寿命は意外と短く、3年間の残価設定ローンが終了すればまた新車に乗り換えるような使い方では問題が起こりにくいが、4年5年と経過するうちにトラブルを起こす。

 リコールではメモリ容量を8倍にすることで問題を解決できるようだが、課題はそれだけではない。中国でもテスラの品質問題は取り上げられ始め、タッチパネル以外にも塗装の品質やルーフパネルの接合不良、異常加速など、真偽のほどや原因が不明な情報もあるものの、さまざまな問題を抱えている。

 テスラですら、この程度のレベルなのである。例えば中国のEVメーカーNIOが他社からエンジニアを引っ張って来ようが、欧州に開発拠点を設けようが、中国主導の企業ゆえの大陸的発想による品質問題は絶対に根底に残っている。

 米国の新興EVメーカーはほとんど量産車の販売を開始していないし、NIOや理想、小鵬といった中国新興EVメーカーは中国市場で1万台程度を販売しているに過ぎない。しかも求められる品質は日本や欧米のそれとはまだ大きな差がある。

●従来の新車感覚で新興メーカーのクルマを買う危険

 中国では46万円という低価格で人気急上昇中のマイクロEVが、自動車市場での存在感を高めている。これがテスラのライバルと目されているという記事も見かけるが、ユーザー層が完全に違うのでこの理解は間違いだと思う。それでも車格や用途から考えれば、日本でも先頃規格化(ようやく)された超小型モビリティの範疇(はんちゅう)に入るので、日本の自動車メーカーにとっては脅威に見えるかもしれない。

 そのクルマ「宏光MINI EV」と比べると、トヨタが発売した超小型EV「C+pod」は随分と高い商品に映るかもしれない。1回の充電で走れる航続距離や車両価格だけで比べれば、そう判断してしまうのも仕方ない。しかし両者は似て非なる乗り物と判断すべきだ。

 新しモノ好きや、自分の使い方に新興メーカーのEVがマッチしていると判断できるユーザーであれば、新興メーカーのEVは魅力的であり、買ってもいい商品となるだろう。

 しかし従来のクルマの使い方に慣れたユーザーが、それ以上の利便性やコスパを求めて新興EVメーカーのクルマを購入するのはリスクが大きい。それはクルマという商品が、耐久消費財であり移動手段であり、動産でもあるという従来の価値観にとらわれたまま、単純なコスパやカタログデータ、想定される出費で優劣を評価してしまうと、トンでもないことになりかねないということだ。

 一足飛びに自動車メーカーへと成り上がったブランドには、経験則でしか作り上げられない配慮や安全対策といったものが不足している可能性が高い。部品同士のキャリブレーションなどの表面的な開発工程だけではない、見えにくい領域の仕事であるからだ。それを一般的にはノウハウと呼ぶが、クルマに関してはそんな生易しい言葉で片付けられない「責任」がある。

 ソニーが自社開発したEVの車体部分製作を、サプライヤーであり自動車メーカーの最終組み立てをも受託するマグナ・インターナショナルに委託したのは、そうした車体作りのノウハウを確実に盛り込むためだ。試作ながら非常に完成度の高いEVとしたことにより、ソニーの高いブランドイメージに相応しいクルマとすることに成功している。

 品質に関しては一朝一夕に作り上げられるものではないことを、ソニーは知っている。ましてやクルマ、試作車の完成度でソニーが売り込みたい電子技術分野の印象も変わってしてしまうからこそ、慎重に最善を尽くしたのだ。

●クルマに何を求めるかが問われる時代になっていく

 従来であれば、日本独自の法規制や保安基準によって、日本市場への参入にはそれなりのハードルがあった。しかし保安基準の国際化で、そうした参入障壁は確実に低くなっており、欧米に進出しようとする新興EVメーカーにとって、日本市場も欧米市場も参入の難しさは違いがなくなっている。つまり中国のEVが日本市場に進出し、徐々にだが確実に存在感を増していくのは間違いない。

 そうして自動車市場が変わっていくのであれば、我々クルマを使う消費者も変わらなければならない。もしクルマに瑕疵(かし)があってもリコール制度によって改善されるだろうという考えは甘い。テスラの例を見れば分かるように、日本では販売台数が少ない車種についてはリコールの対象にそもそもならないことが多いのだ。

 今後のカーライフをカーシェアリングで済ませるユーザーは車種を選ぶ余地は少ないから、そもそも考える必要性は薄いのかもしれない。ともあれ従来の感覚でクルマに絶大なる信頼を求めるのであれば、今後は慎重に吟味してから選択しなければ、後悔することになりかねないのだ。

 日本の、ともすれば「お客様は神様」という感覚は、現在のトヨタ・ヤリスで終わりを告げるかもしれない(余談だが、筆者はお客と店の関係は、貨幣と物品の等価交換に過ぎないと思っている。お客と店員の立場など、時間と場所で瞬時に入れ替わるからだ)。

 アップルが遂に自動車市場に乗り込むという情報が、さまざまな形で伝えられている。iPhone同様、製造を委託するのは自動車メーカーのノウハウを利用したいことと、生産設備などの初期投資を抑えられる以外にも、生産台数の調整をリスク少なく行えるというメリットもありそうだ。

 売れ行きや、自動運転などの開発状況によっては、車両販売を諦め、自動車メーカーにソフトウェアを提供する存在へと方針を転換することもあり得る。それがファブレスの強みの一つでもあるからだ。

 ダイソンが参入を諦めたように、アップルも参入を断念する可能性はゼロではない。それはクルマが、乗員や周辺の人間の生命を左右しかねない、それほどに責任のある機械であるからだ。それを扱う我々も、この激動の時代に対応していかなければならないのである。

(高根英幸)