海外進出を目指す企業や、国外の高度人材を必要とする企業にとって、海外での人材雇用はこれまで大きな障壁となっていた。

 国ごとに異なる法律やコンプライアンスに対応した雇用契約を結び、現地通貨建てで給与支払いをするためには、金銭的、時間的なコストが大きくのしかかる。

 こうした手間のかかる一連の労務管理を、1つのプラットフォーム上で完結させるスタートアップが現れた。グローバル人材の労務管理SaaSを提供する米国発のディール(Deel)だ。

 同社は先日、創業からわずか20カ月でARR100ミリオンドル(約130億円)に到達したことをSNSで公表し、SaaS史上に過去に類を見ないスピードで成長していることが話題となった。2021年12月には日本進出を果たし、注目を集めつつある。

 「リモートワークの浸透に伴い、グローバル人材を活用したいという企業のニーズが一層顕在化したことが、ディールの成長を後押ししています」と話すのは、ディールジャパンのカントリーマネージャーを務める中島隆行氏だ。

 ディールの登場が世界的な人材市場にどのような変化をもたらすのか。SaaS企業分析特化型コンテンツを運営する「企業データが使えるノート」のアナリストが中島氏に取材を行い、急成長の実態に迫った。

●グローバル人材の雇用を阻む労務管理とは

 あなたがあるビジネスで海外展開を任された場合を想像してほしい。海外で人材を雇う場合、どのような手続きが必要になるだろうか。

 まずは賃金や保険、福利厚生を会社として保障するために、その国の労働法や社会保障制度に基づいた雇用契約を交わすことになる。そして税制に従って所得税などを差し引き、従業員に給与を支払う必要がある。

 これらの法制度は国ごとに異なるだけでなく頻繁に改定されるため、労務コンプライアンスの管理は大変煩わしく、意図せず現地法違反となる事象も発生している。

 これまで一定規模で海外進出に乗り出す場合は、現地法人を設立して派遣駐在員や現地採用のスタッフを通じて直接雇用してきた。当然それには時間やコストがかかるため、海外拠点数を増やすことも簡単ではなかった。

 また法人を設立しない場合には、雇用関係に該当しない業務委託契約をワーカーと結ぶのが一般的だ。そのケースでも法制を順守した契約や給与支払いが求められるため、地域ごとに法律・会計事務所やコンサルティング事務所などの専門家のサポートが必要だ。

 「これらの領域では既存のマーケットとして、人事関連業務のアウトソーシング、すなわち雇用代行を行うPEO(Professional Employer Organization、習熟人財雇用組織)という市場が存在する」(中島氏)

 だが、このPEOサービスにはいくつかの問題がある。

 まずPEOを利用しても、企業はコンプライアンス管理における法的責任を問われるリスクがある。代行業者は労務関連の業務を引き受けるが責任は肩代わりしないため、海外での雇用に関して企業としてもガバナンスの観点から完全に手離れできない。

 また5〜10人以上の共同雇用を前提とするのが一般的で、手数料を15〜20%を支払う必要がある。中小企業にとっては負担が大きいのが実情だ。

●グローバル労務管理SaaS ディールとは

 グローバルな人材雇用において避けられないと考えられてきた、煩雑な労務管理とコンプライアンスリスクを解消し、雇いたい企業と働きたいワーカーを地理的な制約から解放するのがディールだ。

 同社は契約から給与支払いまでをワンストップで引き受けるプラットフォームを提供し、ノーション(Notion)やショッピファイ、ドロップボックスやコインベースといった名だたる企業を顧客に抱える。ユーザー企業はディールの現地法人90カ国を介して世界150か国以上でグローバルに人材を雇用できる

 PEOと異なるのは雇用責任もディールが担う点だ。EOR(Employer of Record)と呼ばれるサービスを提供し、200を超える現地の法律事務所などのパートナーと手を組むことで、各国の法律や税制に的確に対応しリスクを低減している。

 また給与や経費支払いにおいて、仮想通貨を含む120以上の通貨に対応しており、企業は金額や支払い方法についてのみ確認すればワンクリックで支払いが完了する。海外への送金手数料や現地通貨に交換するための為替手数料も軽減できる。

 ディールを通じて雇われるワーカーは、リモートワークが容易で、かつ案件ベースで仕事が見つかるエンジニアやデザイナー、コンサルタントなどの職種が多い。産業別で見てもITサービスやコンピューター、インターネット関連の業種が上位を占めている。

 近年、シリコンバレーを筆頭に米国でのエンジニア給与水準は右肩上がりに上昇しており、海外に人材を求める動きがディールなどのサービス利用に拍車をかけている。

●Slackをしのぎ、20か月でARR100ミリオンドル到達

 ディールはa16z(アンドリーセン・ホロウィッツ)やYコンビネーター、ソーゾーベンチャーズなど世界でも名高いベンチャーキャピタルから出資を受けている。21年10月のシリーズDの未上場資金調達ラウンドでは4億2500万ドル(約482億円)を調達し、企業価値評価額は55億ドル(約6247億円)といった破格の値付けがなされている。

 このハイバリュエーションの要因は複数挙げられるが、同社の売上成長スピードの影響が最も大きい。先日、以下のディール社公式Twitterの投稿が、国内のSaaSスタートアップ関係者の間で話題になった。

 このグラフは元々、米国のトップベンチャーキャピタルであるベッセマー・ベンチャーパートナーズ(Bessemer Venture Partners)が公開したレポート内で、SaaS企業がARR100millionドルに到達するまでの成長スピードを表したものだ。そこにディールが描き加えた曲線はほぼ垂直に立ち上がり、この大台に到るまでに要した期間はわずか20カ月となっている。

 フリーミアムモデルとバイラル効果によって急成長を果たしたPLG(Product-Led Growth)モデルを採用するSlackでも、ARR100ミリオンドルまでに3年以上かかっていることから、グローバルでも破格な成長であることが伺える。

●加速する人材市場のグローバル化が、ディールの成長を後押し

 同社の急速な業績の伸びはグローバル労働市場における環境変化の波を捉えた結果である。

 グローバル化、デジタル化の進行にともない国際的な人材の流動性が高まるにつれ、企業は競争力やダイバーシティの観点から、海外人材を活用する流れが加速している。

 だが日本ではコロナの感染拡大防止を目的とした人流制限により、海外からの人の流入にストップがかけられ、IT人材不足が顕著になっていた。

 こうした“物理的に日本に来られない”という障壁をきっかけに、国をまたいだリモートワークが浸透しつつある。「ディールのパートナーである国内の人材紹介会社によれば、顧客企業の15〜20%は海外人材をリモートで雇用してもよいと考えている」(中島氏)

 一方で、グローバル人材を巡る競争は熾烈化している。「日系企業が200万〜300万円の給与差で、人材獲得競争に破れる状況が増えてきた。例えば、スリランカに現地拠点を持つ日本企業では、社員が次々と引き抜かれている状況に危機感を募らせている」と中島氏は語る。

 現地での雇用コストを、採用する従業員の給与に充てなければ、持続的な採用や雇用が困難になっている。これは人事管轄の問題ではなく経営課題である。そこに海外での雇用コストを大幅に削減できるディールのソリューションが深く刺さっている。

 さらに、大手企業が現地拠点を持たない国での福利厚生や社会保障を支援するニーズも大きい。日本の「ものづくり」を海外に輸出したい機械関連のメーカーや、販路拡大を狙う食品会社などから導入が進んでいる。

●ディールはグローバル人材が働くための「インフラ」となるか

 ディールは海外人材を雇用したい企業側だけではなく、ワーカー側からも強い引き合いがある。

 「ディールを利用して、海外企業で働き始めたことで収入が増加するなど、ワーカーの満足度の高さが伺えている。また、ユーザー以外の業務委託で働くフリーランスからも、自社に提案、導入してほしいという問い合わせが来ている」と中島氏が話すように、ワーカー側がディールの導入企業を志向する例は今後増えていくだろう。

 また同社は労務管理からフィンテックへとサービス領域を広げ、さらなるワーカーエクスペリエンスを提供している点に注目したい。

 ディールを通じて蓄積したワーカーの給与所得データを活用し、給与の前借りや審査不要でのデビットカード発行を実現している。途上国などでは、銀行口座が無いために働き口がない人材が実は多く、2017年時点では世界で成人約17億人が銀行口座を保有していないとされる。

 だがそうした層にも近年はデジタルウォレットが普及しつつあり、そこにディールを届けることで、国境を越えた就業機会の裾野が広がり始めている。

 同社はユーザー数が増えれば、企業とスキルドワーカーをマッチングする採用プラットフォームとしての機能も果たすはずだ。

 グローバル人材のインフラとなるべくディールの拡大は続いていく。