●労働時間短縮の舞台裏

 「働き方改革」がメディアに登場することが多くなるにつれ、長時間労働の是正に本腰を入れ始める会社が増えていきました。もちろん、労働基準監督官による臨検をはじめとして、行政が長時間労働の是正に力を入れたことが要因です。それと同時に、人材を確保するためには、働く環境の改善に取り組まざるを得なくなったことも大きな要因でした。

 テレワークや勤務間インターバル、プレミアムフライデーや年次有給休暇の計画的付与など、制度を導入することで労働時間の短縮を促進していきました、なかにはAIをはじめとしたITに投資を強化し、業務の効率化を図る会社もありました。時短に向けた取り組みは各社さまざまです。

 その一方で、「時短はしたいが特にアイディアがない」なんていう会社があるのも事実です。そんな会社ではこんなことが起こっています。

 労働時間短縮の裏側で起こっていた5つの事例を紹介します。

●事例1 時短ハラスメント

 「いいから帰りなさい」

 こう、部長から日々せっつかれるように退社しなくてはならなくなったYさんの口からは、こんな愚痴がこぼれます。

 「部長は『帰れ、帰れ』と言うけれど、仕事量は全く変わっていない。以前からすこしも減っていないんだ。お客様に迷惑はかけられない、それなのに……」

 実はこの会社、労働基準監督官による臨検を受け、労働時間について是正勧告を受けたために時短に乗り出したのでした。ひと月の残業時間が全社員平均して90時間にも及び、中でも長時間労働が目立っていたYさんの所属する商品企画部では、実に平均120時間にも及んでいたことが、勧告を受けた大きな要因でした。そこで、経営陣より部長に対して「商品企画部の残業時間を80時間以下にせよ」との指示が出たことが事の始まりでした。

 「仕事量は減らせないが残業時間は減らせ」という難題を押しつけられたYさん。部長は何の改善策も示さずにただひたすら「帰れ」としか言わない。こんな日々が続くうちに、Yさんはすっかりまいってしまいました。

 このようなケースを世間では、時短ハラスメント略して”ジタハラ”と呼ぶのです。

●事例2 厳重注意に抜き打ち検査

 大手企業ともなると、長時間労働の是正、労働時間の短縮には、社を挙げて本腰で取り組むものです。そんな中、時短の推進役を担うのは人事部です。

 「手に負えませんよ。こっちは彼らのためにやっているのに」

 こう漏らすのは人事部に配属されて5年になるI課長。このI課長の悩みの種は、営業部の社員のタイムカードです。

 「全員のタイムカードが9時から18時で打刻されているんですよ」

 約30人いる営業部の社員全員が必ず毎日9時に出社し、18時に退社した、という記録が残されていたそうです。営業部はI課長がいる人事部の斜め向かいのビルに入っており、18時を過ぎても人がいるのは明らかでした。それにもかかわらず、タイムカード上は全員が18時退社となっていたのです。不審に思ったI課長は、営業部の若手社員に声をかけ、様子を聞いてみることにしました。すると、こんな答えが返ってきました。

 「交代制で全員のタイムカードを打刻しているんです」

 事実を突き止めたI課長はすぐに人事部長に報告。営業部長は人事部長から厳重注意を受けました。しかし、営業部長の反発も激しく、譲りません。

 「俺らが稼がなきゃ、いったい誰が稼ぐんだよ」

 話し合いは平行線をたどりました。その後も人事部は、18時すぎに営業部に乗り込むなどの抜き打ち検査を実施。厳しく対処しましたが、すると今度は、会議室やカフェなどに場所を移して仕事を続行するといった調子で、営業部もあの手この手で抵抗を続けました。  

 幸いにもこのケースでは、社長をはじめとする経営層が労務リスクに関する危機感を強く持っていました。長時間労働の是正に対する意識が非常に高かったため、労働時間を「削る」や「潜らせる」などの営業部長の抵抗はほどなく終わりを告げ、今では適正な労働時間把握が行われているそうです。

●事例3 実際の仕事量が明白に

 「残業が減って時間に余裕はできたけど、めっきり生活にはゆとりがなくなったよ」

 こう漏らすのは、入社8年目のAさん。Aさんの会社は、中小企業をクライアントに持つ小さめの広告代理店。従来はみんな残業するのが当たり前だったと言います。

 「何となく会社にいるのが普通でした」

 ところが働き方改革関連法が施行されて以降、残業申請が必要になり、業務の進捗や計画を細かく上司に報告しないと残業ができなくなったそうです。もともと給与は他社の同年代の人に比べて高めだったので、その分、残業代も高く、ある程度「残業代を見越して生活設計していた」のだと言います。

 しかし、残業が減ったことに比例して残業代も減少。以前ほど趣味にお金を使えなくなってしまったというわけです。また、Aさんのまわりでは残業代が減っただけではなく「自身の評価が下がってしまった」同僚もいたそうです。

 「仕事量に大きな差が出たみたいです」

 Aさんは、同僚のBさんについて語ってくれました。

 Bさんも以前は、同僚の中で誰よりも多く残業をしていたようです。その時は、仕事量が他の社員よりも極端に少ないということはなかったようです。ところが、時短が始まってからというもの、日を追うごとに成果に差が開いてしまい、評価にも大きく影響が出てしまったということです。

 かつては要領が悪くても、残業して成果を出せれば許されていました。それが、残業が自由にできなくなり、時間をかけられなくなった結果、仕事量や成果の差が一目瞭然になってしまったのです。

●事例4 残業時間を過少申告する社員

 業務評価の基準に、「残業時間は何時間まで」と盛り込むことにしたA社。

 それを知ったCさんは、「だったら残業代を稼ぐよりも評価を上げたほうが得だ」と考えました。そこから、「残業時間なんて少なく申告しておけばいい」と考えるようになり、正確な労働時間を申告しませんでした。

 しかしこの考え方は、会社にとってはとんでもなく迷惑な話でした。問題は、社員の業務を正しく評価できないことではありません。

 本人はよかれと思って行動していましたが、結果として未払い賃金が発生し、会社がコンプライアンスに違反する事態を招いたのです。過少申告したタイムカードと、パソコンのログの時間が一致していない事実が露見し、会社は労務の管理不足を指摘されることになってしまいました。

●事例5 労働時間の定義

 「職場以外でも仕事のことを考えていたら労働時間になりますよね。僕は、通勤する電車の中で、ずっと今日の業務について考えています。だから残業代を払ってください」

 D社長に向かってこう言い出したのは、春に入社したばかりのEさん。

 また、社員の知識と技術の向上のために研修を実施したところ、D社長は別の社員から次のような質問を受けました。

 「研修を受けている時間も労働時間ですよね」

 残業時間の話をすれば「どこまでが労働時間ですか?」という話題になり、研修を実施すれば「研修時間はすべて労働時間のはずだ」という意見が出てきてしまう。このようなときは、どう回答するべきでしょうか。私の考えではこうです。

 もし新入社員から「どこからどこまでが労働時間ですか?」と尋ねられたら、「会社が指揮命令をして労務を提供している時間だ」と答えます。上司が指揮命令をしていない時間に「仕事をしていました」と訴えても通用しません。研修時間については労働時間とするのが一般的です。

 しかし、会社が命令をしていない研修への参加は、労働時間とはいえません。また、労務を提供していないことからも賃金は発生しない、という回答になります。

●企業と個人それぞれの働き方改革

 事例2で紹介したケースは、かなり悪質な実例です。叩き上げタイプの営業部長は、「俺たちには労働基準法なんて関係ない」という感覚があり、人事部とはかなりの温度差がありました。今では職場環境は改善されています。

 働き方改革関連法の施行により残業の上限規制が始まると、一部の会社では、定刻に職場の電気を一斉消灯するという方法をとりました。そうすると、今度は会社の近くのカフェに続々と社員が集まるようになったというわけです。

 仕事を自宅へ持ち帰る社員も増えました。多くの会社では持ち帰りを禁止していると思います。それでもある程度、上司が目をつぶるとか、あえて泳がすこともあります。先のカフェでの労働も、どちらも法律違反です。

 もし、残業時間の超過が発覚すると大問題になります。管理職は降格されることもあるでしょう。悪質だとして部長本人が書類送検された事例もあります。最近は、以前に比べると、労務に対する認識は改められ、法律を守る意識が浸透してきています。

 事例3で紹介したケースは、残業がなくなると生活水準が変わってしまうという実例でした。これは構造に問題があります。残業を前提として組織を構成する、日本企業の特徴的な側面があらわれています。残業代をふくめてひと月の手取り給与の額が決まっている会社も多く、そもそもの基本額を低めにしていることもあります。残業が減り給与が減ってしまった分、給与を増やした経営者もいます。

 ブラック企業や社畜などの呼称が生まれたのは、ごく最近のことです。企業に対する世間の目は、この数年で確実に厳しいものになっています。そして、それに呼応するように行政の動きも活発になり、企業に労働環境の改善を強く求めるようになりました。それがまさに「働き方改革」なのですが、その改革を求められているのは企業だけではなく、「働く人」にも改革が必要なのだ、ということがわかってきました。

 働き方改革の大本命である「長時間労働の是正」には生産性の向上が不可欠であり、そのための業務全体の効率化は当然として、労働者個々人も生産性を向上しなければならないからです。今までは苦手な業務であっても、時間をかけて期日までに達成できていればよかったのです。それが、時短により、時間をかけずに達成しなければならなくなりました。

 働き方改革により、生産性の向上を求められたのは企業でした。しかしそれは同時に、働く人にも生産性の向上を求めていることを再認識しておく必要があります。

●ポイント

 部下の業務を結果だけで判断するのではなく、なぜ時間内に仕事を終えられないのかを把握することが重要です。一度、社員の隣に一日中張りついて、仕事ぶりを見てください。本人にとって、ベストだと考えている仕事の仕方が実は間違っていないかを管理職が確認し、すり合わせを行うとかなり効果的です。これが労務の改善ポイントになります。管理職には、社員の業務を管理して指導する役目があります。業務量と成果の把握をし、本来あるべき姿に近づける、その方法を指導することこそが管理職の仕事です

本記事は『働きやすさこそ最強の成長戦略である』(著・大槻智之、青春出版社)を一部抜粋し、ITmedia ビジネスオンライン編集部で編集の上、転載したものです。