値上げラッシュが止まらない。

 38年間値上げをしなかったスシローも、一皿100円を終了すると発表した。コロナやロシア・ウクライナ問題によって高騰する原材料費を価格転嫁した形だ。日用品から、外食産業まで、平均10%程度の値上げを各社が発表し、家計に大きな打撃を与えている。

 「黒田バズーカ」と呼ばれる大規模な金融緩和を実行しても、なかなか達成できなかった2%のインフレターゲットだが、4月の物価上昇率は約7年ぶりに2%台に乗り、5月も前年同月比2.5%と、2カ月連続で2%を超えた。

 2%のインフレターゲットとは、安定的に物価が上昇していくなかで、企業の収益拡大や賃金上昇といった好循環を促進するという考え方だ。

 しかし、4月に『スタグフレーションの時代』(宝島社新書)を上梓した経済アナリストで金融教育ベンチャーのマネネCEOを務める森永康平氏は、物価だけが上昇して賃金は増えていないことに強く警戒感を示している。

 このまま購買力が上がらないまま、物価だけが上昇していくとどうなるのか――。森永氏に「賃金が上がらない国・日本」の深層を聞いた。

●最高益企業続出でも喜べない理由

 5月、大手商社7社の2021年の決算発表が出そろった。軒並み踊る「過去最高益」の文字。伊藤忠商事は20年度から2倍、三井物産は2.7倍、三菱商事に至っては5.4倍にまで利益が膨らんだ。

 半導体の供給に苦しんだはずのトヨタ自動車も、22年3月期連結決算では営業収益、最終利益ともに過去最高を記録した。日本経済をリードする企業群が「儲(もう)かっている」ならば、それはうれしいニュースだ。

 株式市場もコロナ禍では堅調に推移し、昨年9月には日経平均株価が1990年8月以来の最高値をつけた。しかし、足元の"景気実感"とは、どこか乖離(かいり)があるようにも思える。

 森永氏は、この国民が感じている"景気実感"とメディアが報じる株価などの経済データは全く別物だと説明する。

 「私たち国民は何から景気のよしあしを実感するでしょうか。例えば商店街に行ったときにシャッターをおろしている店ばかりになっていたり、なじみの居酒屋や小料理屋がつぶれていたり、タクシードライバーが『全然お客さんがいない』と嘆いたり、そういう身の回りの状況から景気を実感するわけです。

 一方で、日経平均株価とは何かというと、上場を果たした約3800社の中から、さらに上澄みの225社を選び出して算出した株価指数なのです。街中の居酒屋や小料理屋の経営状況から感じる景況感と、日経平均株価の構成銘柄であるトヨタやソフトバンクの業績を同一に論じることが、そもそもおかしいわけです」

●大企業の賃上げのしわ寄せは下請けに

 では、景気実感とは、どうしたら改善するのか。それは、実質賃金が増え、購買力が上がることだと森永氏は指摘する。

 実質賃金とは、労働者が受け取った給与である名目賃金から、物価変動の影響を差し引いた、消費者の実質的な購買力を示す指標だ。

 ところが、厚生労働省が今月発表した今年5月の実質賃金は、前年同月比で1.8%減少してしまった。

 「モノの値段の上昇率に給与の上昇率が追いついていない状況です」(森永氏)

 5月20日に経団連が発表した「大手企業の2022年春闘妥結状況」では、今年の春闘による大手企業の賃上げ率は2.27%で、2018年以来4年ぶりに前年を上回った。

 しかし、原材料費の値上がりも深刻化するなかで、このしわ寄せは下請け企業にくる懸念があると森永氏は話す。

 「大企業は価格交渉力がありますから、現在のように原材料費が上がっても中小零細の下請け企業に負担させることができます。下請け企業が価格転嫁をしたくても、それを言い出せば、それなら他の企業と取引をするといわれてしまう恐怖感がある。しかし、原材料費が上がっている現実を前に、安くできるわけはないですから、結果的に経営を切り詰めて無理をしていくのです。このようにして、弱い立場の人が真っ先に負担を押し付けられていきます」

 さらに森永氏は、政府が進める「賃上げ促進税制」にも疑問を呈す。

 「岸田政権が進めている賃上げ促進税制の効果にも懐疑的です。賃上げをしたら法人税を優遇するという、賃上げにインセンティブを持たせる政策ですが、社数ベースでいえば日本企業の99%以上が中小零細企業といわれています。さらにその中小零細企業の半分以上が赤字で、法人税をほとんど支払っていない状態ですから、賃上げをするデメリットのほうが大きいのです。見方によれば大企業優遇策と言えるかもしれません」

 確かに、国税庁が発表した「国税庁統計法人税表」では、19年度のデータで赤字法人率は65.4%と、中小零細企業にとっては、効果がほとんどない政策といえそうだ。むしろ、大企業の賃上げのしわ寄せを受けている可能性もある。

●いま日本で「スタグフレーション」の足音が

 景気が後退していく中で、物価が上がっている状況を「スタグフレーション」という。

 森永氏は、今まさに日本にもスタグフレーションの時代がやってきたと主張する。

 「スタグフレーションは、オイルショックの際に起きた現象です。一般的に物の値段が上がる仕組みには2つの種類があります。1つ目は需要が供給量を上回ることによって、モノの値段が押し上げられる『ディマンドプル型』です。でも今はそうではありません。景気が悪くて需要よりも供給量が圧倒的に多い中で、それでも値段が上がってしまうのは、外から輸入しているエネルギーや原材料の値段が高くなった結果です。決して国民がお金持ちになって需要が膨らんでいるわけではないのです。これを『コストプッシュ型』といいます」

 では一体どうすれば、この負のスパイラルから抜け出すことができるのか。

 国内経済は、企業、家計、政府の三主体の間で資金が循環することによって成り立っている。企業と家計の間では、労働力の対価としての賃金や、商品・サービスの購入代金といった形でお金のやりとりがされている。政府は企業・家計に対して産業振興や公共サービス、社会保障を提供する一方で、税金を徴収している。森永氏はこのうち企業と家計は、互いに常に合理的な選択をするとしている。

 そこで、負のスパイラルを是正するには、政府による財政出動が必要だと説く。

 「原材料の値段が上昇すれば、企業は利益を維持するために賃金を出し渋ります。そうすれば家計は将来不安から節約をして貯金することになります。それ自体は、合理的な判断なのです。だから、企業と家計の行動を変えさせることは難しいのです。

 お金の循環が経済ですから、企業と家計の間でお金の循環が滞れば、政府が財政出動してお金を回していかないといけないのです。財政出動せよというと、ダムを造るとか橋を作るとか、公共投資のことを想像しがちです。でも実はお金を出すことだけが財政出動じゃなくて、企業や家計から吸い上げるお金の量を減らすのも財政政策なのです」

 つまり消費税を減らすことも財政政策の1つなのだ。

 「例えば今、私たちは消費税として買い物をするたびに10%を取られています。例えばそれが0%になれば、私たちの購買力は事実上10%増えますよね。これは実質的に賃金を上げるのと似たような影響を与えるのではないでしょうか」

●短期的な現金給付 中長期的な公共投資

 岸田首相は、政策の柱として「資産所得倍増」を掲げた。家計においては「貯蓄から投資へ」を掲げ、いまは65歳未満となっている個人型確定拠出年金「iDeCo(イデコ)」の加入対象年齢を引き上げるなどの政策を検討している。預貯金をため込む高齢者に投資を促す狙いがある。

 総務省が「家計調査報告」で示した1世帯あたりの貯蓄額は2000万円近くにのぼり、過去最多となった。だから、この貯蓄を投資に回させようとしているのだ。しかし、森永氏は「投資の非課税制度の拡充自体を否定はしないが、実施すべき政策の順番がおかしい」と主張する。

 「家計が保有している金融資産にはもともと大きな偏りがあります。大量の不労所得を得て、大金をため込んでいる富裕層もいれば、Uber Eatsで日銭を稼いで漫画喫茶に寝泊まりするような、その日暮らしの人も多くいます。

 この30年間で国民の平均賃金はろくに増えず、その一方で不安定な雇用環境にある非正規の割合は倍増しました。それらの現実から目を背け、『投資せよ』と言うのは政府が果たすべき役割を放棄しているといえます。まずは岸田首相が総裁選のときに掲げていた所得倍増計画を実現しないといけません」

 その上で、森永氏が財政政策に期待するのは、短期的には消費減税または廃止と、現金給付だ。中長期的には投資支出だという。

 「短期的な話としては、万遍なく国民全員を浮上させるために、時限的に消費税を廃止するか、減税するという方法が1つありますよね。さらに生活困窮者を重点的に救うために、現金や電子クーポンなどを配布して生活を支援することが目先で求められる政策です。これで国民全体の購買力が上がれば物価上昇局面でも買い控えしなくなるので、企業の業績も上がるでしょう。それがボーナスや給料に反映されれば、さらに消費は増えますから、『良いスパイラル』が作りあげられます」

 家計が富めば購買力が上がり、購買力が上がれば企業の売り上げも上がるというわけだ。

●日本経済の命運を分ける夏

 「中長期では何をするかというと、老朽化したインフラの再整備やエネルギー戦略に予算をつけたり、科学技術予算などにも積極的に投資をしたりしていくことで、景気は上向いていくでしょう。新たな雇用を生み出しますし、供給能力が高まることによって、インフレを抑制する効果も狙えます」

 7月1週目時点で、報道各社が発表する内閣支持率はやや下落傾向だ。昨今の物価高対応への評価が足を引っ張る様相を呈している。果たして目の前のスタグフレーションの足音にも耳を傾けることができるか。日本経済の命運を分ける夏が始まっている。

(フリーライター星裕方)