「安い」「低い」とけなされてばかりの日本の賃金がようやく引き上げられていくのではないか、という淡い期待が寄せられている。グループ全体で約33万人を抱える巨大企業NTTが、初任給をドーンと大きく引き上げたからだ。

 11月8日、NTTは2023年4月入社の新入社員の初任給を、現在の大卒21万9000円から25万円とおよそ3万円もアップすると発表。しかも専門性が高い人材はさらにアップで、24%増の27万2000円以上とする。

 なぜこんな大振舞いをするのかというと、「能力が高い人材を獲得していく目的」(NTTプレスリリース)だという。NTTは研究開発の人材が35歳までに約3割がGAFAに引き抜かれることで、“GAFAの予備校”などと揶揄(やゆ)されていた。そのような人材流出を防ぐために転勤や単身赴任をやめたり、年功序列をやめて20代から管理職に就けるようにしたりと人事改革を進めている。今回の賃上げもその一貫のようだ。

●「格差」が広がるという指摘

 一方、この人事改革によって「格差」が広がるという指摘もある。『〈現行の役職は廃止します〉月21万円の賃金差も…NTTグループ「人事改革」内部資料入手』(文春オンライン 11月10日)によれば、評価グレードの高い社員と、評価が最下位の社員の給与格差は月20万7620円にもなる。つまり、ほんの一握りの「能力が高い人材」にとっては賃上げだが、能力がそこそこの人は実質的に「賃下げ」になるというのだ。

 ただ、いずれにしても、このようにNTTが「カネで能力の高い人をつなぎ止める」という方向へ大きく舵(かじ)を切ったことが、日本全体の「賃上げ」につながっていくと見る専門家も少なくない。

 ご存じのように、NTTは日本の基幹産業を代表する企業で、その働き方や人事制度、そして給料は多くの大企業のベンチマークとされてきたという事実がある。実際、NTTがジョブ型雇用を導入したところ、それを受けて他の大企業でも今、続々とジョブ型雇用へと舵を切っている。

 つまり、NTTが外資系に「能力の高い人材」を奪われないよう、一部の人とはいえ賃上げをしたように、他の大企業もNTTに人材を取られないようにその動きに追随せざるを得なくなる。そういう大企業が増えていけば、全国に広まって、「賃上げドミノ」が起きるのではないか、と一部の有識者が言っているのだ。

 ただ、厳しいことを言わせていただくと、それはかなり能天気というか、甘い見通しだ。この先、NTTを「手本」にして大企業の賃上げが進んだところで、日本全体の賃金にはほとんど大きな影響がない。

●日本経済に及ぼすインパクト

 なぜそんなことが断言できるのかというと、日本の産業構造的にあり得ないからだ。

 日本には、約359万の企業がある。では、その中でNTTのような大企業はどれくらいなのかというと約1.1万社で、0.3%に満たない。では、残りの358万社は何かという中小企業、しかもその中で305万社は、社員がわずか数名という「小規模事業者」である。

 さらに、日本の企業には約4679万人の従業者がいる。その中でNTTのような大企業で働いているのはどれくらいなのかというと約1459万人で、31.2%を占めている。ここまで言えば、想像がつくように、残りの7割、約3220万人は中小企業で働いているのだ。

 さて、こういう産業構造を踏まえて、大企業が「能力の高い人材」を賃上げすることによって、日本全体に「賃上げドミノ」が起きるのか想像していただきたい。

 確かに、NTTに人材を奪われないように大企業の中には賃上げの動きが波及するかもしれない。大企業に勤める「能力がそこそこの社員」は、新しい評価制度で実質的な賃下げになることもあるだろう。とはいってもそれは、わずか1.1万社で日本の労働者の3割に限定された話だ。

 大企業と人材の争奪戦をしていない中小企業358万社は、大企業がいくら給料を上げても別世界の話なので賃上げに動かない。つまり、そこで働いている労働者の7割の賃金は今とそれほど変化がないということだ。

 3割の労働者の給料が上がっても、7割が「ひどい低賃金」で働いていたら、これを全体にならせば「一般的な低賃金」になる。これが「日本の賃金」が30年ほとんど上がっていない最大の理由だ。

 われわれはNTTやトヨタ自動車のような巨大企業が何かアクションを起こすと、それが日本全体の経済にも大きなインパクトを与えると考えがちだが、それはイメージが勝手に一人歩きをしているだけだ。実際は企業の99.7%を占めて、労働者の7割が働いている中小企業のアクションが、日本経済に及ぼすインパクトのほうがはるかに大きいのだ。

●「賃上げドミノ」を起こすには

 では、「賃上げドミノ」を起こすにはどうすべきか。

 消費税をゼロにしろ、大企業からガッツリ税金をとって中小企業にバラ撒(ま)けば解決だ、などいろいろな意見があるだろうが、根本的なところでは、諸外国のように「最低賃金の引き上げ」をしていくしかない。

 ご存じのように、中小企業の経営はブラックボックスだ。株を持つオーナー社長が家族を役員にしていることが多く、株主など外部の意見はほとんど反映されない。社員数名という小規模事業者も多いので、労働組合などほとんどない。社員や外部に経営の数字が開示されることも少ない。

 こういう「ブラックボックス経営」にいくら税金を投入したところで、経営者が乗り回す高級車に消えたり、家族の役員報酬に消えたりするだけだ。

 つまり、消費税をゼロにしようが、中小企業に莫大な補助金を投入したところで、そこで働く日本の7割の労働者にはほとんど「還元」されないということなのだ。

 だからこそ「最低賃金の引き上げ」という“外圧”が必要だ。

 法的に賃金のボトムラインを引き上げると、どんなブラックボックス経営でも賃上げせざるを得ない。あらゆる企業が対象なので、賃上げを価格に反映しやすい。賃上げすると潰れてしまう企業もあるだろうが、そこは新規事業や成長を目指して企業努力をしていくしかない。

 世界の中小企業は、みんなそうやって成長している。そして、成長ができない中小企業は「なんとか労働者を安くこき使って延命しよう」ということにはならず、事業を畳むか、競争力のある企業への事業を売却・譲渡していく。そうして、経済というのは新陳代謝していくものなのだ。

 というと、「数だけを見て本質的なところが分かっていない! 中小企業は大企業の下請けとして搾取されているので、その構造を変えないで最低賃金の引き上げなどをしても倒産企業を増やすだけだ」という反論もあるだろう。

●「構造的な賃上げ」を避けてきた

 しかし、これもイメージの一人歩きだ。

 『中小企業白書2020年版』の「受託事業者の現状」を見ると、中小企業の中に、下請法に基づく受託取引のある事業者、「下請け企業」を調査したところ、なんと5%程度しかいなかったのだ。

 もちろん、これは業種でバラツキがある。「情報通信業」が最も多く36.2%、次いで「製造業」が17.4%、「運輸業、郵便業」が15.2%、「卸売業」(3.1%)や「小売業」(1.0%)と続く。

 「下請け」が問題になっているIT業界でも、6割強は下請けではない。製造業にいたっては8割以上が下請けと無縁で、生産性が低いと言われている小売・サービス業などほとんどない。われわれはドラマや小説のイメージから「中小企業=下請け」と勝手に思い込んでいるが、実はそれは「多数派」の話ではないのだ。

 つまり、何かしら新しいルールを整備して、大企業が中小企業を搾取させないようにしたところで、95%の中小企業にはほとんど影響がないのだ。

 しかし、「最低賃金の引き上げ」はそういう不公平・不平等なことはない。労働者を使うすべての企業が対象なので、100%の中小企業に影響がある。それはつまり、日本の99.7%の企業に影響するということなので、日本全体の賃上げ効果が期待できるのだ。

 ただ、残念ながら、世界では主流の経済政策である「最低賃金の引き上げ」は、日本では唱えるだけでキワモノ扱いで、「弱者切り捨ての新自由主義者だ」「左翼だ」とイデオロギーを超越してバッシングされる。

 「最低賃金を引き上げたら、日本には倒産と失業者があふれておしまいだ」「中小企業をいじめるのではなく、もうかっている大企業をもっと締め付けるべきだ」というイメージが一人歩きしたような話が圧倒的に多く広まっているからだ。

 本来は、政治家がリーダーシップを発揮して、こういう「ふわっ」とした話に流されず、客観的なデータに基づいた経済政策を進めていかなければいけない。

●「なんとなく」に流されやすい

 が、日本の政治はそれがどんなに怪しかろうとも、データに基づかない話だろうとも、「選挙で勝てそうな話」に流れがちだ。岸田文雄首相がアピールする「聞く力」もそっちに流れがちだ。

 そんな首相肝煎りの「新しい資本主義実現会議」では、「構造的な賃上げ」を議論しているが、そこではあまり構造的とは言い難い話で盛り上がっている。

 『内閣官房の「新しい資本主義実現本部」によると、一般的に企業間の労働移動が円滑な国であるほど労働生産性が高く、生涯における賃金上昇率も高くなることがデータで確認されているという』(ロイター11月10日)

 だから、日本の大企業をGAFAのようにクビにしやすいようにせよ、という主張を一部の有識者が唱えているが、これはほとんど効果がない。繰り返しになるが、日本企業の99.7%は中小企業だ。社員数名の中小企業は、終身雇用と労働組合で社員が守られる大企業よりもはるかに労働移動が円滑だ。

 ある日、社長から飲みに誘われて、「ウチも物価高騰で厳しいから」と切り出されて、自発的に辞表を出すように促される……いわば“ソフトクビ切り”がずいぶん昔から当たり前のように横行している。しかし、大企業と比べても中小企業の生産性はかなり低い。「一般的」な話は日本の産業構造には当てはまらないのだ。

 日本社会は「なんとなく」に流されやすい。みんながマスクを着ければ医療崩壊は起こらない。飲食店が自粛をすればコロナ患者は減っていく。消費税をゼロにすれば景気は回復する。中小企業を手厚く支援すれば、黙っていても賃金は上がっていく。

 残念ながら、どれもエビデンスに乏しい願望のような話だが、日本人は「なんとなく」に弱いので、立派な肩書きを持つ人がそういうことを言い出すと、「そうだ、そうだ」と群集心理に流される。

●客観的なデータに基づいた経済政策

 今回のNTTの賃上げもそうだ。「NTT」という圧倒的なブランド力と知名度、そして国内屈指の33万人という巨大グループと合わせて、立派な専門家に「NTTが変われば、日本企業も変わっていくかも」なんて言われると、すぐに鵜呑(うの)みにしてしまう。

 日本の労働者の7割にあたる約3220万人が中小企業で働いているという事実はスコーンとどこかに飛んでいって、「NTT」と「33万人」という「なんとなく影響がありそうなパワーワード」に引っ張られてしまう。

 こういう「なんとなく」に弱い国民性をあらためない限り、日本の経済政策は「なんとなく効果がありそう」というイメージだけで、実際は大して効果のないものに流れがちだ。

 それが「バラマキ」と「減税」だ。構造的な問題に手を突っ込まずに、カネをバラまいていれば景気がよくなって経済が成長するなんて、そんなうまい話は世界のどこにもない。しかし、多くの日本人は「市場にカネが出回ればなんとなく景気が良くなりそう」という雰囲気に流されてしまうのだ。

 今こそ、「日本経済を支えているのは誰か」「本当の大多数は誰か」という視点で、客観的なデータに基づいた経済政策が求められるのではないか。

(窪田順生)