前からやってみたいと思っていた夢がある。バーチャルサイクリングでどこでも自由に走り回るというものだ。室内で自転車を漕いで、画面には3D空間に入り込んだ自分と自転車が進んでいく仕組みの「Zwift」(ズイフト)は、ある程度それを実現してくれている。パリ、ロンドン、ニューヨークといった観光名所を家にいながら走ることができる。

 しかし、「どこでも」「自由に」ではない。

 Zwiftの中で走れるのは、Zwiftの中に3Dで構築された仮想的なパリ・ロンドンで、走れるのも特定のコースだけ。例えばロンドンにあるビートルズの聖地、アビーロードスタジオの世界一有名な横断歩道を横切るといったことはできない。

 アビーロードの横断歩道は、定点カメラやGoogleストリートビューによって、以前よりもだいぶ身近なものになったが、仮想自転車の旅先としてはまだ遠いものだ。いや、遠いものだった。

 Googleストリートビューで撮影された場所ならどこでも走れるという仮想自転車サービスが始まっていたのである。VRゴーグルを着けて360度どこでも見渡せる“VRサイクリング”という形で。

●Oculus QuestをかぶってVRサイクリング

 サービスの名は「VZfit」(ブイジーフィット)。米マサチューセッツ州ケンブリッジに本社を置くスタートアップVirZoomが運営している。もともとは、ジム用の専用システムの開発を行っていたのだが、VRにシフトして仮想サイクリングシステムを構築。2019年にサービスを開始した。現在では「Oculus Quest」と「Oculus Quest 2」に対応している。

 筆者はVZfitがOculusのサブスクリプションサービスに対応したのをきっかけに初代Oculus Questで始めた。譲ってもらったダイレクトドライブ方式のローラー台と古いロードバイクを組み合わせ、仮想サイクリングサービスの一番人気「Zwift」を始めたのは4月のことだが、並行してVZfitもやってみようと考えたのだ。サービスは月額990円(税込)。Zwiftほど高くはないが、決して安い投資ではない。

 しかし、これがうまくいかない。Oculus Questのゴーグルをかぶってローラー台のセンサーをVZfitに接続し、ロードバイクを漕ぐのだが、前に進まない。進まないどころか逆走してしまう。Zwiftの方は体重が14kg減るくらい毎日走っているのだが、VZfitは4カ月放置したまま。解約するかと思案しながらダラダラ先延ばしにしていた。

 先進的なVRグループウェア「Horizon Workrooms」のためにOculus Quest 2を買ったのでVZfitのことを思い出して再挑戦してみたのだが、やはり自転車とうまく連動しない。

 しかし今度は諦めず、しっかり原因を追求しようと対応センサー、バイクシステムの対応表をチェックしてみた。

 対応しているセンサーやバイクシステムはかなり少ないのだが、買える値段のものもある。このセンサーを室内で使っているロードバイクに追加で取り付ければいいのか、と購入することにした。

 最も互換性が高いとお勧めされているのは「Magene S3+」という中国製のセンサー。日本でも2000円から4000円くらいで買える。ケイデンス(回転数)とスピードと両方に対応しているが、ここではケイデンスモードにして、ロードバイクのクランクに装着した。

 VZfitを起動すると、システムがこのセンサーを見つけ、仮想空間内の自転車はちゃんと前に進んでくれた。ついにVRロードバイクの誕生である。

 前置きが長くなってしまったが、VZfitがどのような仕組みになっているのかを紹介しよう。

●しまなみ海道を(VRで)走る

 VZfitには2つのモードがある。自転車(Ride)モードと自転車なし(StandUp)モードだ。自転車のセンサーが認識されない場合は自動的にStandUpモードになる。センサーがOKならば自転車コースだ。

 StandUpモードでもGoogleストリートビュー空間を進むことができるのだが、円盤型の乗り物の上で両手を振りながらスクワットするという、なかなかハードな運動をすることで前に進む仕組みだ。円盤に乗って移動していると、黄金バットの宿敵、ナゾーになったようだ(古すぎる)。何よりとても疲れるので、このためだけにこのサービスを続ける人はいないのではなかろうか。

 VZfitが用意しているコースはどれもGoogleストリートビューのデータを使ったものだ。「Find a Ride」というメニューに、あらかじめシステムが用意したコースがあるので、まずはその中から走ってみることにする。世界中のコースがあるのだが、その中に自転車乗りなら一度は走ってみたい「しまなみ海道」を見つけた。まずはトライ。

 しまなみ海道は広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ、約60kmのコースで、四国と瀬戸内海と本州にかけられた橋を渡っていく「サイクリストの聖地」である。

 現地に行けばレンタルサイクルのサービスがあるので、自転車を飛行機や電車で運ぶ"輪行”をしなくても済むのだが、現在は緊急事態宣言のため、レンタルサービスはお休みだという。

 VZfitのコースは来島海峡大橋を渡るところから始まる。

 出だしは快調だ。見上げると来島海峡大橋の構造が見え、ちゃんと橋を渡っている感じがする。

 自分が走行しているレーンにはパックマンのように白い玉が表示され、走りながらそれを拾っていく。ところどころ、コインがあり、拾うとチャリンと音がするのがマリオカートっぽい。解像感は意外に高い。

 おかしなところにも遭遇する。横に建造物や別のクルマがあると、通り過ぎるときに変形していくのである。もともとはただの360度画像であるGoogleストリートビューを無理やり3Dにマッピングしているので、破綻が避けられないのだろう。

 それでも、遠景や路面はリアルで、こちらのスピードに合わせて後方に消えていく。遠くを見ながら走る分には問題ないねえと、全長4kmの橋を渡っていく。

 だが、橋を渡り切るのが精いっぱいだった。Zwiftでは30km以上走ったことがあるので4kmくらいは大したことないのだが、何しろ暑い。Oculus Quest 2のゴーグルの中が蒸れてしまうのである。Zwiftのときと違い、目の周りにたまった汗をタオルで拭くこともできない。

 このときは扇風機を稼働させていなかったが、Zwiftのときよりも強力なモードにしておけばゴーグル蒸し風呂問題はなんとかなるかもしれない。

 もっとも、しまなみ海道のような有名なコースは、リアルタイムで走りながら記録したYouTube動画がたくさん公開されているので、それをハンドルの前に置いた大型ディスプレイで流しながら走ったほうが現実的かもしれない。そういえば、自転車展示会のサイクルモードでしまなみ海道のビデオを見ながらインドアバイクで走るデモを試したことがあった。

 ただ、VZfitが本領を発揮するのはこういう“誰もが走りたがる場所”ではないはずだ。とにかく自分が行きたい、走りたいという場所を走るのが一番だ。じゃあ自分でコースを作ろうじゃないか。

●自分で決めた場所を走る

 VZfitには、「Create a Ride」というメニューもある。これこそが、Googleストリートビューで自分の好きな場所を走れる機能なのだ。

 このメニューを選択すると、検索窓と地図が表示される。検索窓に地名を入力すると、その付近の地図になり、そこから出発地「A」と目的地「B」をそれぞれ選ぶと、その経路が走行ルートになるという仕組みである。

 では早速入力してみよう。行きたいのは、冒頭でも書いた、アビーロード。1969年発売のビートルズ最高傑作とされるアルバムのジャケットで、4人が渡っている横断歩道のある通りである。住所としては、Abbey Road、住所であるSt. John's Woodなどが考えられるが、目的地の建物であるAbbey Road Studiosで検索するのがいいだろう。幸い、タイピングしなくても音声入力できる。しっかり聞き取ってくれた。優秀である。

 これで、地図のセンターはビートルズがレコーディングしたスタジオ、アビーロードスタジオになった。ここから再度出発点「A」を選び、場所を変えてそこを目的地「B」にするわけだ。その間の経路は自動設定される。

 地図はGoogleマップのデータを使っているようで、日本語での表示もされているのだが、ユーザーインタフェースはよくない。画面をつかんでドラッグすることができず、東西南北のボタンを押して移動させることしかできない。出発地と目的地の選択にはかなり苦労する。あらかじめGoogleマップで予習しておいた方がいいだろう。

 短い経路ではあるが、アビーロードスタジオから、アビーロード通りをちょっと走るだけの、僕だけの自転車ルートができた。

 気持ち悪くならないよう、ゆっくりと走ってみた。左側には観光客が落書きをしたアビーロードスタジオの壁が見える(定期的に消しているらしい)。

 前方を見ているだけならそれほどヘンテコな絵にはならないが、横を向くと進むにつれて建物やクルマが変形していく。「Lucy in the Sky with Diamonds」や「Glass Onion」の世界だ。

 トリップしそうになるので、たまに空を見上げると、ロンドンの青空が広がっている。

 この地に行ったのはちょうど35年前、1986年の9月。新婚旅行、妻も僕もビートルズの大ファンとあってビートルズの聖地ツアーをし、その起点がロンドン、アビーロードの横断歩道だった。

 世の中に定点カメラがはやり始めた頃、妻がアビーロードのカメラを見つけて、カクカク動く画像を見て喜んでいたのは前世紀の終わり頃だったろうか。技術はついにここまで来た。

 そういえば妻は「仮想自転車旅日記」というブログを2006年くらいに書いていた。家にあるエアロバイクを漕ぎながら、走った距離をもとに、地図にプロットして言葉と想像力で仮想的な自転車旅の記録をつけていくというものだった。なんという先見性だろう。

 「すごいね」と褒めてあげたいところだが、一緒に歌うことはできても、言葉で伝えることはできない。

 妻が隣でBianchiのクロスバイクを漕いでいるつもりになって、一緒に行くはずだったニューヨークのダコタハウスとか、リバプールのペニーレイン再訪とか、ビリー・ジョエルの曲「Movin' Out」で「そんなところに持ち家あったってね」と言われてしまうハッケンサックとか、いろいろ走ってみたい。

 VZfitは自分のハンドルだけが見える1st Person View、後方から自分を見下ろす形の3rd Person View、そしてNo Person Viewを選べる。もう1つ、With Someone You Love Viewというのを設定して、そこに一緒に走りたい人の3Dモデルを置けるようにしてくれないだろうか。妻の3Dモデルはもう作ってあるので。

 そんなことを願いながら、35回目の結婚記念日にVRゴーグルをかぶってペダルをこぐ。BGMは、新婚旅行時、カセットウォークマンに録音した妻との会話だ。