9月15日に日本経済新聞社が報じたところによれば、米国のメディア格付け機関「NewsGuard」が、TikTok上で流れている動画の約20%に虚偽や誤情報を含んでいる可能性があるという報告書をまとめたという。

 ま、そらそやろ的な話である。TikTokは誰でも動画投稿できる単なるプラットフォームであって、報道メディアではない。とはいえ、どうしても中国資本のサービスを排除したい米国にとって都合のいいデータではある。

 ただ、このニュースは色々な意味で示唆に富む。例えば「事実」とは何か。車と歩行者の交通事故を例にとれば、運転手から見た真実と、歩行者から見た事実は異なる場合がある。では事故を目撃した第三者の証言は信用に足るのか。見ていた角度や状況によって、またそこでも見えていた事実は異なるのではないのか。現場に居合わせた当事者だけでも捉え方の異なる事実が複数出てくる中、報道メディアは誰から見た事実を伝えるべきなのか。

 放送法第四条では、放送番組の編集等として、以下のように定めている。

第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 ここで注目すべきは、「放送番組の編集に当たつては」と明記されているところである。つまり編集ではウソがつけることに、あらかじめくぎを刺しているといえる。編集とは、時間をかけて複数の要素をつなぎ合わせ、1つにまとめる作業である。そこには、誰かの意志が介在する。

 筆者は1984年からテレビ番組の編集者としてマスメディアで働き、現在に至るまでメディアの仕事をしている立場だが、「話を伝える」には必ず「人の解釈」が介在しており、伝え手のバイアスはどこかしらに入ってしまうと考えている。若い頃から客観性を持て、と良く言われてきたものだが、第三者だからこそ、簡単にバイアスがかかってしまう。

 人は対立するものを見れば、本能的に優劣を付けたがる。興味関心のないスポーツ中継を見てても、どちらも公平に応援する、あるいはどちらも応援しないということがとても難しいのと同じである。

 報道機関でさえ、事実を伝えることは難しい。誰にとっての事実なのかで、基準を誤ることがあるからだ。だから世の中にニュースとして出る前に、複数人でチェックする仕組みがある。

 ましてや、メディア人として経験もトレーニングも積んでいない一般市民が誰でも投稿できるプラットフォームに、ウソがあるだのないだのと語ることには、意味がない。「ネットにウソの情報を流してはいけません」は情報モラルとしては語れるが、いち個人が「事実であること」を客観性を以て保証することは難しい。

 事実ではないとしても、本人が信じていれば、それは本人にとっては事実になる。だから、事実と事実、正しさと正しさぶつかったり、相反することがあり得る。宗教が絡む問題が簡単に解決できないのは、そうした背景がある。そもそも宗教とは、争いを諫めるための思想体系であり、真実と共に生きる事を勧めるものであるはずだったのに、だ。

●「検索」は「正しい」を担保するか

 話をTikTokに戻す。米国での報告で注目されているのは、TikTokの検索機能自体に問題がある、という指摘だ。検索して結果を戻すのは人間ではなく、サーチエンジンである。そのエンジン自体もバイアスがかかっている、というわけである。

 ただそうは言っても、検索エンジンの検索結果についてはもう長らく研究されている通り、見つかりやすいような対策もされるわけだし、検索履歴による学習機能もあるわけだから、誰がいつ検索しても同じ結果になるわけではない。

 TikTokの検索では、ウクライナの「ブチャ」を調べると、最初の候補に「ブチャ フェイク」が上がってくるということで、中立性に問題があるという。意図的・政治的に世論を誘導するためのフェイク動画が拡散するのは、すでに社会的な問題になっている。それがさらにTikTokの特性として、興味本位のユーザーがおもしろおかしいものを探しに来る場所なわけだから、そりゃ事実もフェイクも関係なく刺激的なものが上位に上がってくるだろうよ、とは思う。

 インターネットの普及から20年余。検索して情報を探すという行為も、意味合いが変わってきている。インターネット黎明期、1990年代中頃から2000年代半ばぐらいまでは、企業の公式サイトや大学、個人のWebサイトなど、わざわざ情報を知らしめたい人が、知らしめたい情報をネットへ出していた。「ググる」がちゃんと機能していた時代である。

 2006年にTwitterが、2010年にInstargamがサービスインし、SNSの時代が安定期に入ると、Webを「ググらない」人達が出てきた。知りたいことは、SNS内を検索するほうが効率的、というわけだ。確かに「バエる」情報が知りたければ、「バエる」の専門であるInstagramを探した方が、SN比としては向上する。

 好きで発信している情報を、勝手に探して役立てる。「見せたいものが見つかるだけ」から、「見せたいものから勝手に意味を掘る」へ変化すれば、情報の正誤は保証されない。ナマの事実より、きれいな虚構のほうが、しあわせとの距離が近い。

 各プラットフォームには、プラットフォームなりのバイアスがかかる。Instagramは、Inatagramをやっていそうな人からしか情報が得られない。バエの大半は虚像だ。よく見せようとする情報には、ウソを語る必要はないにしても、欠点を黙っておく、ということはあり得る。いうなれば全ユーザーによる「広告ごっこ」である。

 それでも実際その通りに試してみてうまく行けば、その情報は正解となる。試せるものはそれでいいとしても、試せないものや結果が曖昧なものは、信じるか信じないかの話でしかない。誰も情報の正誤を確認しないまま、場当たり的に時間が流れていく。

 欲しい情報が見つかるはずだったWebサイトを今ググると、既存の情報を焼き直しただけのいわゆる「いかがでしたかサイト」ばかりが上位に上がってきてしまい、解決につながらない。そのものズバリは公式サポートサイトでタイトルだけは見つかるが、「私も知りたいです」で終わっている。何か壮大な化かし合いが始まったのかと錯覚する。

●清は清でのむ、濁は濁でのむ

 「清濁併せ呑む」という言葉があるが、今の情報の「呑み方」は、清も濁も区別せずのむのではない。清は清としてのみ、濁は濁として、知っててのまざるを得なくなった。探しても「事実」が見つかる可能性が下がってきている現状では、あまりにも事実にこだわりすぎていると、何も得られなくなるからだ。

 清濁が区別できているうちはいいが、清をのむほうが生きづらいのであれば、しあわせのために濁を好んでのむようになることは、十分あり得る。時に濁は甘言であり、心地よさにあふれている。

 コロナ禍が始まってワクチン接種がスタートすると、ワクチン肯定派と否定派で大きく意見が割れることとなった。見ているデータは同じでも、ワクチン接種で○%死ぬのは仕方がないと見るのか、○%も死ぬのかふざけんなよと見るのかで話が変わってくる。政府の方針を信じるか、信じないかという話になる。科学とデクノロジーの21世紀もすでに1/5が過ぎた現在でも、自分のしあわせがかかってくると、いまだ行動が「信じる・信じない」の二択にゆだねられるのは奇妙なことではあるが、実際にそれが起こった。

 そしてその二択が決められない混乱の中で、多くの陰謀論が誕生した。そしてそれをかたくなに信じ込む人達も出てきた。陰謀論は、単なるイタズラで始まることもあるが、現代は何らかの裏があって発信されることが多い。つまり、「そういうことにした方が都合がいい人達」がいて、架空のシナリオをでっち上げる。それを拡散するのは、裏の意図を意識することなく、単に面白がってる人や、大真面目に信じてしまう人達だ。

 事実とは時に、説明がつかなかったり、つじつまが合わない事が多い。「なぜ」に対する明確な答えが、簡単には見つからないからだ。一方陰謀論は、「なぜ」の部分を空想によって埋めた上で、全体のストーリーが組み立てられる。

 肝心の「なぜ」の部分はウソだが、そこから逆算して作られたストーリーは、つじつまが合う。だから、のみやすい。完璧に理解できる。ものごとを理解する事を好む傾向が強い人は、陰謀論のほうがのみやすいし、人にも説明しやすい。だからいつしかそれが、つじつまが合わない事実よりも、重要になってしまう瞬間がある。そうなると、その考えから抜け出すのは難しい。

 ネットには正しさにこだわらない情報があふれており、われわれは次第にその状態に酩酊しつつある。自分自身で正しさが判断できる材料が揃わないならば、「正しいと思われる人を信じる」ことで判断するしかなくなる。コミュニケーション技術の発達により、直接民主主義が可能になるのではないかとする論もあったにもかかわらず、間接民主主義が生まれた古代ローマ時代へ逆戻りだ。清濁の情報が多すぎるということは、共同体が小さいという事と結果的にあまり変わらなかった、という事になる。

 われわれは検索により、広い情報の海を泳ぎ、万能であるつもりになっていた。だが実際には、しょせん1人の人間が興味を持つ範囲のことを引き寄せているにすぎず、しょせん1人の人間が理解できる範囲のことしか理解できないのだと思い知らされる。

 そうしてわれわれは、今日も自分に与えられた狭い空間の中で心地よく過ごすために、多くのウソを見逃し、しかたなくのむ事になる。これでいいはずはないが、解決の糸口は未だ見つかっていないのではないか。