コロナウイルスの流行から世界情勢の不安定化、製品供給網の寸断や物流費の高騰、そして急速に進む円安と業界を取り巻く環境は刻一刻と変化している。そのような中で、IT企業はどのようなかじ取りをしていくのだろうか。各社の責任者に話を聞いた。前編の記事はこちら。

 アドビの神谷知信氏は、2021年4月に代表取締役社長に就任したのに合わせて、「心、おどる、デジタル」を日本法人独自のビジョンに掲げた。グローバルでのミッションはあっても、日本法人が独自にメッセージを対外的に発信するのは初めてのことである。

 また、2022年9月には、CDO(Chief Digital Officer)のポジションを新設し、外部に向けて、情報を発信していくことを明らかにしている。果たして、これらの取り組みの狙いはどこにあるのか。後編となる今回は、アドビが目指す企業の姿や、日本の企業や社会への貢献、同社が考える社会的責任などについて神谷社長に聞いた。

前編→・日本の中小企業を元気にしたい! 3つのクラウドを中心に「All Adobe」で取り組む理由

●日本法人独自のビジョン「心、おどる、デジタル」を策定した背景

―― 2021年4月にアドビの社長に就任後、日本法人独自のビジョンとして、「心、おどる、デジタル」を掲げました。これにはどんな意図があるのでしょうか?

神谷氏 一言でいえば、アドビを1つにするために、社員が共有できるビジョンが必要だと考えたことが背景にあります。2011年から掲げる「世界を動かすデジタル体験を」というグローバルでのミッションはあるのですが、アドビジャパンとして1つになるためにはどうしたらいいか、10年後、20年後にはどんな会社にしたいのか、という指針が必要だと考えたのです。

 そこで、30代前後の社員たちに集まってもらい、4つのグループに分けて議論をしてもらいました。そこから生まれてきたのが、「心、おどる、デジタル」というビジョンでした。それ以来、1年半に渡り、「All Adobe」として、One Teamsでお客さまに最高の価値を提供することにフォーカスしています。

―― アドビを1つにしなくてはならないという危機感があったのですか?

神谷氏 当社に対するお客さまの期待は、デジタルメディア領域のAdobe Creative CloudおよびAdobe Document Cloudと、デジタルマーケティング領域のAdobe Experience Cloudの組み合わせによって生み出される複合的なソリューションの提供にあり、私たちも、それを強みとして訴求してきました。

 しかし私自身、社内から見ていると、ちょっとした違和感がありました。私は2014年10月にアドビに入社し、Adobe Creative CloudとAdobe Document Cloudを担当し、責任者を務めてきましたが、Adobe Experience Cloudの事業との間に、社内の分断というものを少なからず感じていたのです。もともと生い立ちの違う事業という背景もありますが、これはアドビが社内に抱える課題の1つであり、社長になって最初にやろうと考えたのが、これを解消しようということでした。

―― これは日本法人特有の課題なのでしょうか?

神谷氏 正直なことを言うと、本社でもそういった感覚はあると思います。しかし、米国の場合は、それぞれの独自性があっても、それを生かそうとする機運がありますし、お客さまも、製品ごとやタスクごとに担当が分かれていても、あまり気にしないところがあります。

 ところが、日本のお客さまはリレーションシップを重視しますし、できるならば窓口を一本化して欲しいという要望が強い市場です。その点が日米での商習慣の違いであり、日本では、よりOne Teamになって、お客さまに向き合わなくてはなりません。そこで、日本独自のビジョンを作り、そこでアドビが1つになるということを目指しました。

―― 「心、おどる、デジタル」というのは、アドビらしさを感じるメッセージですね(笑)。

神谷氏 当社のソリューションは、ITコストの削減や、バックオフィスの生産性向上を目的としたものではなく、顧客の体験をデジタルを通じて豊かにすることが中心となります。デジタルを通じて、ユーザーが心躍るような体験をし、幸せになり、社会全体が豊かになればいいと思っています。デジタルを通じて、ワクワクしないとおもしろくないじゃないですか(笑)。

 当社のソリューションを使うことで、ワクワクしてもらいたい。そういった意味を、この言葉に込めました。実は最近、社員がこの言葉を日常的に使い始めていて、「心、踊っている?」なんて聞いてみたり、全社員が参加する会議の名称も「こころ、おどるオールハンズ」とつけたり、社内でもキーワードとして定着しています。ビジョンが共通のテーマとして、社内に定着し始めていることを感じます。

●デジタルで体験/貢献できるものは幅広い アドビがハブとなって連携

―― 「デジタル」という言葉を使ったことで、コンテンツ制作やコンテンツ配信といった限られた領域のソリューションだけでなく、より幅広い範囲で社会貢献をしていこうという意図も感じられます。

神谷氏 デジタルで体験できるものは幅広く、デジタルが貢献できる範囲は幅広いといえます。日本でも5G時代が到来し、このような新たなテクノロジーを活用することで、当社が貢献できる範囲はさらに広がるといえます。

 「心、おどる、デジタル」は、

・「Digitalize」(ペーパーレス革命は、いつもここから。)

・「Delight」(データをみきわめ、体験でつなぐ。)

・「Amaze」(クリエイティブで、常識をうごかす。)

・「Foster」(次のデジタルへ、解像度を上げる。)

 の4つの要素で成り立っています。

 これらは、Adobe Creative Cloud、Adobe Document Cloud、Adobe Experience Cloudの全てを組み合わせることで実現できるものです。顧客体験を高めるためには、コンテンツを作るだけでなく、コンテンツを配信しなければならず、これを成し遂げるには、3つのクラウドソリューションを組み合わせる必要があります。

 中には、顧客体験を高めるにクラウド同士の連携をもっと強化しなくてはならない部分もあり、その点については日本からの声として、本社にフィードバックするといったことも積極的に行っています。

 今、この4つのテーマごとに、さまざまな部門の社員が参加するバーチャルチームを作り、当社はどんなことができるのかといった議論を行い、それに向けた施策を考えています。こうした横断的な活動によって、当社が関わることができる範囲が広がり、当社による顧客体験を向上させることができ、All Adobeとしての提案が加速できるといえます。

 デジタルを活用して顧客体験を高めるのは、多くの企業に共通した課題です。ただ、お客さまと話をすると、どこからやっていいのかが分からないという声がとても多いのです。また、DXに取り組みたいけど、コンサルティングファームなどに相談するほどの費用はないというお客さまも少なくありません。

 そこでアドビでは、デジタルストラテジーグループ(DSG)と呼ぶ組織を強化しました。2019年には組織化していたのですが、私が社長になって以降、この陣容は約10倍に増やしています。コンサルティングファームの出身者などで構成しているチームで、製造や金融などの各業界に精通したエキスパートの陣容を強化しました。お客さまの課題を聞き、お客さまの現状を把握し、同業他社とのベンチマークや、異なる業界の成功事例などを紹介し、課題を元にした対話を進めています。

 ユニークな例の1つとして、日本では同じ業界内であっても、業界団体の活動などを通じて、ライバル企業同士が横連携することがあるのですが、海外の同業他社との連携となると一気に少なくなるというケースがよくあります。グローバル企業であるアドビが間に入って、海外の同業他社とつないで情報を交換したり、連携を深めたりといったことが始まっています。デジタルを軸にして、当社が果たす新たな役割の1つともいえます。

 お客さまに話を聞くと、デジタルマーケティングをやりたいということだけではなく、紙を減らしたい、充実したWebページを作りたい、全世界にいるクリエイターを結ぶワークフローを作りたいなど、課題はさまざまです。とはいえ、ここに共通しているのは、これらは全てデジタル体験を向上するために、各社が持っている課題であるという点です。

 また、日本の経営者に多いのが、コスト削減についてはデジタル化の効果を理解できるのが、デジタルによって、どれぐらい売上げを高めることができるのかといったイメージが湧かないというケースです。言い方を変えると、営業担当者を1人雇用すると、どれぐらい売上げを高めることができるのかは読めても、Webサイトを変更することで、どれだけ売上げが上昇するのかといったことは経験がないため理解しにくいのです。

 その点は事例をお見せしながら、理解を深めてもらうといった活動を進めています。また、かつてのようにソフトウェアを販売することを前面に出したビジネスモデルでは、デジタルを活用した課題解決にはつながらないことも明らかです。お客さまの課題に向き合い、お客さまと歩調をあわせながら、日本の企業のDXの推進を支援していきます。

●アドビ変革のストーリーを他社と共有したい

―― 2022年9月には、新たにCDO(Chief Digital Officer)のポジションを設置しました。この狙いを教えてください。

神谷氏 当社は2012年にAdobe Creative Cloudの提供を開始し、それまでの永続版ライセンスモデルから、サブスクリプション型およびクラウド型へとビジネスモデルを転換しました。現在、売上げの多くはアドビのeコマースサイトによる直接販売が占めています。eコマース事業による売上高は、IT業界の中でも最大規模だといえます。

 当社はこの大きな転換によって、継続的な成長を遂げ、ビジネスの範囲も拡大しています。こうした成果を見て、当社のビジネスモデルの転換への取り組みについて知りたいという声を多くいただいていますし、私自身も、この成果をもっと多くの方々に伝えたいと思っています。

 なぜ、当社がこうした戦略を取ったのかだけでなく、その転換を支えたテクノロジーは何だったのか、どんなアプリケーションを利用したのかといったこともお伝えしたいと思っています。サブスクリプション型への転換に伴う、社内のデータ活用と業務フロー改革や、必要なデジタル人材の確保と既存社員のリスキリング、あるいはマーケティング活動から販売までの一気通貫のデータを活用するための組織改革についても共有することができます。

 CDOに就いた西山正一は2001年にアドビに入社し、日本におけるビジネスモデルの転換を推進してきた経験を持ち、また、当社のデジタル戦略のトップでもあります。アドビのCDOは、社内のマーケティングから顧客管理までのデジタル業務フローをさらに高度化させる役目を担うだけでなく、社外に対しても、当社が持つ知見を積極的に共有し、日本の企業のDXを支援する役割も担うことになります。

 また、シリコンバレーに本社がある会社であり、最新テクノロジーやスタートアップ企業に関する情報が入りやすく、どこに注目しておけばいいのかといったことも共有できます。そうした役割を対外的にも分かりやすくするために、CDOというポジションを設けました。当社の変革のストーリーを他社のCDOとも共有していきます。

●仮説を立ててテストを繰り返す そこに正解はなくても進化はできる

―― アドビのDXの経験において、日本の企業に最も強く伝えたいことは何でしょうか?

神谷氏 決断力だといえます。経営者がいかに決断するかが、全てにおいて大切です。また社内では、よく「テスト」という言葉が使われます。とにかく、やってみるということです。私たちがいる世界は、やったことに対して、正解と不正解という二択で判断することはできません。むしろ、やらない方が損だという状況にあります。

 当社はテストを繰り返すことにこだわっています。例えば、サブスクリプションの試用期間を決めるのにもテストをしてみて、最適だと思われる期間を設定しています。仮説を元にテストをして、それを繰り返せば、進化をしていくことができます。正解はありませんが、正解に近づくことはできます。そのためには、テストの繰り返しが大切なのです。

 私は、当社の強みは「変化すること」にあると思います。そして、当社の社員を見ていると、その変化に耐えられる人が集まったというよりも、変化が好きな人が集まっていると感じます(笑)。創業時のアドビと、今のアドビは全く違う会社になっています。事業を拡大したり、買収によって製品ポートフォリオを広げたりといったことを繰り返し、そのたびに変化をしてきました。変化する文化がアドビそのものだといえます。

●日本法人設立30周年を迎え――人の生活を豊かにする会社を目指す

―― 中長期視点で見た場合、アドビは日本においてどんな会社になることを目指しますか?

神谷氏 当社は、一部のクリエイター向けの製品を提供する会社だというイメージが強かったと思いますが、その状況は大きく変化しています。紙からデジタルへの変化は、日本の企業のDXにとっては大きな柱になります。ペーパーレス化は、SDGsの観点からも重要な要素です。あらゆる企業において、紙のデジタル化が鍵になる中で、PDFをはじめとして、当社が貢献できる部分は大きいといえます。

 コロナ禍において、デジタルコンテンツに対するニーズがより高まっています。多くの人たちがデジタルコンテンツから情報を得て、SNSを利用して自分たちのブランディングができるようになりました。日本の飲食店は、対人口比では世界で最も数が多いというデータがあります。しかし、全ての飲食店がWebサイトを作ることができず、できたとしてもメンテナンスまでは手が回りませんでした。

 SNSでは、簡易的なツールを使って、自ら発信をすることが可能になり、新たな情報への更新も簡単です。企業の規模を問わず、誰でもがブランディングができるようになってきたわけです。ここにも当社が貢献できる部分があります。さらに、教育現場でも当社に対する関心が高まっています。WordやExcelにとどまらず、より創造力に刺激を与えるようなツールとして当社の製品を活用し、成果物を作り出すといったことが始まっています。

 こうして見ると、アドビの社会的責任は数年前とは異なり、比較できないほど大きくなっていることを感じますし、社員たちも、そうした意識を持って働いていると思っています。2022年3月には日本法人の設立30周年を迎え、2022年12月には米本社の設立から40周年を迎えます。こうした歴史も踏まえ、社会的責任をしっかりと担うことができる企業でありたいと思っています。

―― 2022年6月に行った事業戦略説明会では、「デジタルエコノミーの推進」「デジタルトラストの実現」「デジタル人材の育成」の3点に取り組む考えを示しました。特にデジタルエコノミーの推進という観点は、これまでのアドビにはなかった視点だとも言えます。

神谷氏 日本はデジタルエコノミー、デジタルトラスト、デジタル人材という3つの課題を抱えており、この課題を解決するには、テクノロジーカンパニーである当社が貢献できる範囲は広いといえます。

 デジタルを通じて、こころ踊る体験をするには、アドビが必要であると感じてもらえたり、ワクワクする製品と言ったときに、最初に連想してもらえたりするようになりたいですね。当社はアプリケーションベンダーではありますが、人の生活を豊かにする会社だね、と言われたいと思っています。それが、アドビが目指す姿だといえます。