上昌広

【まとめ】

・医学部では「普通の臨床医より研究者が偉い」と洗脳される。

・臨床医学の発展は、症例報告の地道な積み重ねによる。

・時代が変わり、今医師に求められるのは、臨床に即した視点。

 

「なぜ、今のような医師になろうと思ったのですか」

昨年末、医療ガバナンス研究所にインターンに来た高校生から質問を受けた。

高校生は5人で、4人は灘高校、1人は東海高校の生徒だった。多くが医学部進学を希望していた。

彼らが目指すのは、臨床医よりも研究者だ。「臨床は目の前の患者しか治せないが、研究者は多くの患者を病から救う」という。

 これは我々が学生時代から言われ続けていることで、医学部では「普通の臨床医より研究者の方が偉い」と「洗脳」される。私は、このような感覚に違和感がある。高校生たちには、私の経験を紹介した。

このことは昨年12月に出版した拙著『ヤバい医学部 なぜ最強学部であり続けるのか』(日本評論社)でも紹介した。ご興味のある方はお読み頂きたい。

話を戻そう。まずは私の経歴だ。私は1993年に東京大学医学部を卒業した。1年目を東大病院内科、2年目を大宮赤十字病院(現さいたま赤十字病院)で研修した。

当時、東大病院の内科は初期研修を終えた後の3年目で入局した。私は第3内科に入局した。

「第3」と付くので3番手の内科と受け取る方も多いだろうが、東大第3内科は1878年に欧州留学から帰国した青山胤通が立ち上げた青山内科を祖とする日本最古の内科だ。多くの著名な医師・医学者を輩出しており、「日本の医療界は東京大学第3内科が仕切っている」と言う人もいる。

第3内科が強かったのは、血液病、循環器病、糖尿病だった。当時の教授は循環器が専門の矢崎義雄先生だ。現在は東京医科大学の理事長を務め、2018年に発覚した不正入試問題などの不祥事への対応を担っている。

その先代の教授は長年に渡り日本医学会会長を務めた髙久史麿先生だった。

当時の助手には、現在、日本糖尿病学会理事長を務める門脇孝・前東京大学糖尿病・代謝内科教授、日本循環器学会理事長を務める小室一成・東京大学循環器内科教授などがおられた。教授から若手まで錚々たるメンバーが揃っていた。

私が第3内科の中で選んだのは血液グループだった。当時、血液グループをリードしていたのは故平井久丸先生だった。白血病の遺伝子研究の分野で大きな業績を挙げた医師だった。

私は伝統ある第3内科の末席に加えて頂いたのだが、入局すると程なく、強い違和感を抱いた。それは、上級医の話題のほとんどが基礎研究に関することで、患者さんのことは二の次だったからだ。

当時の東大病院の入院診療では、医師3人がチームを組んだ。トップは助手(現在の助教)で卒後10年目くらいの医師、その下に「中ベン」と呼ばれる卒後3-5年目の指導医、そしてその下に研修医が付く。

当時、東大病院で実際に患者を診療するのは、「中ベン」と研修医だった。血液グループでは、オーベンが病棟に来るのは朝と夕方だ。朝は温度版をみて議論し、夕方は中ベンから報告を受けると研究室に戻る。

中ベンは、東大病院で1年間研修した後に1-2年間、一般病院で研修して戻ってきた人たちだ。私は4年目に中ベンをしたが、臨床経験は2年目に大宮日赤病院で内科全体の研修医をした後、都立駒込病院血液内科で専門研修をしただけだった。臨床経験が絶対的に不足している。

実はオーベンも大して変わらなかった。東大第3内科で大学に残る人の場合、1年間の中ベンを終えると研究室に配属され、研究生活に入る。

30代半ばに助手に任命されるまで、臨床経験は週に一回程度のアルバイトの外来だけになる。助手になっても、昼間は研究室で実験をして、病棟に来るのは夕方だけだ。その後、大学病院も臨床重視を打ち出さざるを得ず、朝も回診するようになったが、その程度で臨床能力が高まるはずがない。

彼らのキャリアパスは、助手を数年務め、留学することだ。日本の医師免許は欧米では通用しないので、留学先ではひたすら研究に没頭する。

写真)研究風景(イメージ)

出典)PIXNIO

当時、血液内科の先輩たちが留学先で研究していたのは、白血病の遺伝子の異常だった。白血病の治療法の臨床研究ではない。

医学研究はアメリカが中心だ。ビッグラボに留学すると、多くの情報が集まる。留学先で頑張ると、『ネイチャー』や『サイエンス』のような一流科学誌に論文が掲載され、高く評価される。

そうなると、帰国後に大学教授への道が開ける。教授選の評価基準は論文だからだ。留学中に一流誌に論文が掲載されることは、大きな実績になる。

注意すべきは、このような論文が掲載される雑誌が『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』や『ランセット』のような臨床医学専門誌でなく、総合科学誌であることだ。

インパクトファクターという雑誌の評価は、『ネイチャー』や『サイエンス』も、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』や『ランセット』もかわらない。

ところが、当時の第3内科では例外なく『ネイチャー』や『サイエンス』に論文を投稿することを目指した。先輩医師の中には「インパクト・ファクターが低い臨床論文なんか、幾ら書いても、私は評価しない」と公言する人までいた。

臨床医学の発展は、副作用報告など症例報告の地道な積み重ねによるものだ。論文は公開され、同じような患者を診療する医師が読んで、参考にする。我々は先人たちの努力の上に診療を行っている。ところが、医局という閉鎖的な環境にいると、このような当たり前のことがわからなくなる。

組織は評価軸で変わる。基礎医学の研究が評価されるのだから、医局員は臨床そっちのけで実験に没頭する。当時、助手を務めた先輩たちは、診療のことを「duty(義務)」と呼び、研修医に「臨床はほどほどにして、早く実験を始めた方がいい」、「ちゃんと研究をしないと、まともな医者にならない」と言った。

私は、このような言い方に反発を覚え、何度も言い争いになった。30歳の時に上司とぶつかり、東大病院を去る。これ以降、東大病院で働いたことはない。

なぜ、医学部を目指す高校生にこんな話をしたのかと言えば、これから指導を受ける教授の中には、このような価値観を持ち続けている人が少なからずいるからだ。

流石に学生に向かっては公言しないだろうが、基礎研究で教授になった人が、そのことを否定するのは自らの存在価値を損ねる。

このような教授は、臨床や臨床研究には詳しくない。私が、東京大学第3内科時代に御指導いただいた先輩医師の中から、2013年に社会の関心を集めたノバルティスファーマの降圧剤や白血病治療薬の臨床研究不正に関わった人たちが出た。製薬企業に都合のいいようにデータを改竄し、患者に無断で診療データを製薬企業に送っていたことが問題視された。

このような行為は、医師・臨床研究者として致命的だ。教授の場合、たとえ自らが指示していなくても、管理責任がある。事態の深刻さを鑑みれば、組織のトップとして責任をとるのが普通だろう。ところが、彼らは東大教授の地位に留まったままだ。ノバルティスファーマの幹部は全員が更迭あるいは辞職となったのとは対照的だ。

人間は環境に影響される。ノバルティスファーマ事件で糾弾された教授たちに罪の意識はなかったのだろう。「先輩たちと同じことをしているだけなのに、なぜ、私だけ批判されるのか」と思ったかもしれない。

彼らの問題は、彼らが医師としてトレーニングを受けた80-90年代と社会が変わってしまったのに、そのことを認識していなかったことだ。

日本社会が高齢化し、健康が社会の関心を集めるようになった。健康に関心があるのは研究の世界でも同じだ。いまや工学部も理学部もライフサイエンスの研究者だらけだ。

競争は熾烈である。医師が初期臨床研修を終えた27歳くらいから、診療の合間に実験をするようでは太刀打ちできなくなった。医師に求められるのは、臨床に即した視点になった。

東大第3内科の先輩医師たちも、教授になってから臨床研究に関わったが、悲しいかな臨床の実務経験がない。知人の製薬企業社員は「基礎研究で教授になった人は、臨床ができないことがコンプレックスなので、そこを突けば簡単に落とせる」と言う。この人は東大病院の担当者だった。

最近、年配の教授の中には基礎医学を志す若手医師の減少を嘆く人がいるが、このような教授は、時代の流れについていっていない。医学部を卒業したら、数年間だけ臨床研修をして、あとは研究室で試験管を振っているような医師では通用しなくなったのだ。かつて「診療も研究も出来る」と言われた大学病院の医師は、いまや「診療も研究も中途半端」と呼ばれる。

医学は科学だ。誰でも学べる。医師の専売特許ではない。医師にだけ許されているのは医療だ。医療というのは、医学という学問に基づく、人間の営みだ。

社会が豊かになり、多くの人が健康に関心を持つようになると、基礎医学の研究には医師免許を持たない研究者が参入するだろう。

基礎研究に言葉の壁はない。2019年4月には改正入国管理法が施行され、東南アジアや南アジアの優秀でハングリーな若者がやってくるようになった。かつて貧しかった日本から、野口英世や利根川進が豊かなアメリカに渡り、医学研究に従事したのと同じことが日本でも起こる。現在の医学部教授の若い頃とは全く状況が違う。

かつて医師は大学教授になるのが、最高の成功と目されていた。教授になるには、論文を書かねばならない。手っ取り早いのが、治療の効果を見るための観察期間が長い臨床研究ではなく、基礎医学の研究だった。

山崎豊子が1963年に発表し、何度も映画化、ドラマ化された『白い巨塔』や、保阪正康が1981年に発表した『大学医学部―80大学医学部・医科大学の実態』(現代評論社)などを読むと、当時の雰囲気がわかる。

状況は変わった。古今東西、変化を主導するのは若者だ。私が指導する若手医師の中には「母校の教授になりたいと思ったことはない」という人が珍しくない。坪倉正治医師など、その典型だ。

坪倉医師は東大医学部を卒業したが、卒業後、東大病院で働いたことはない。2011年3月11日に起こった東日本大震災以降は、現在に至るまで福島と東京を往復して診療を続けている。内部被曝検査を立ち上げ、住民や小・中学生、高校生を対象に被曝対策の講義を繰り返している。被曝を含め、東日本大震災が地元住民の健康に与えた影響を研究し、100報以上の英文論文を発表した。これは同世代の医師で最高レベルだ。フランス、ウクライナ、ネパール、中国などとも共同研究を続けている。

坪倉医師をみていると、IT技術が発達した昨今、臨床はもちろん、臨床研究でさえも、大学にいなくても出来ることがわかる。

教授世代も変わり始めている。2019年3月には渋谷健司氏が、東京大学医学系研究科の教授を辞めて、英国の大学に移籍した。当時、渋谷教授は53歳。専門は公衆衛生学で、前出の坪倉医師とも福島の被曝の問題で共同研究を続けていた。この数年間は東京大学の医学系研究科で「もっとも一流誌に論文を掲載している教授」として知られていた。

渋谷教授が東大を辞めたのも、大学にいると動きにくく、十分な研究ができないからだ。英国では、現地の研究者を巻き込み、福島の問題にも取り組んでいる。

私は、高校生たちに、このような医師たちの存在を紹介した。大いに刺激になったようだ。

わが国の医学部は変わらねばならない。変化を担うのは、このような若い世代だ。長期的な視点で応援して欲しい。

 

トップ写真)患者と向き合う医師(イメージ)

出典)パブリックドメイン