(町田 明広:歴史学者)

◉渋沢栄一と時代を生きた人々(5)「井伊直弼①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64827
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(6)「井伊直弼②」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64841)

一橋派の敗北と戊午の密勅

 安政5年(1858)6月19日の日米修好通商条約を皮切りに、井伊直弼は同年中にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも調印、安政五カ国条約を締結するに至った。実際の交渉や署名をしているのは岩瀬忠震であるが、最終的な責任を負ったのは上司にあたる直弼であった。これ以降、直弼の政治姿勢は激変する。文字通り赤鬼と化して、反対勢力を粉砕すべく政治権限を最大限に行使することになるのだ。

 6月23日、直弼は堀田正睦・松平忠固の両老中を罷免し、無断調印の罪を被せた。同日に一橋慶喜と対面、違勅による無断調印を詰問された。翌24日に水戸斉昭、尾張藩主慶勝、水戸藩主慶篤は不時登城して、直弼による条約の無断調印を面責した。また同日、松平慶永も登城して老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説した。直弼は25日に家茂の継嗣発表を実行し、7月5日に至り、慶喜に登城停止、斉昭・慶永らに隠居・謹慎を沙汰し、ここに一橋派の敗北が確定した。

 直弼による政敵排除の嵐が吹き荒れる中で、水戸藩・斉昭による巻き返し工作が秘密裏に進められていた。そして8月8日、いわゆる「戊午の密勅」事件が勃発する。それまでの幕府に大政委任をしていた政治体制を、朝廷自らが否定して水戸藩に天皇の命令である勅諚が下賜されたのだ。この勅諚は諸藩にも写しが内々に配られており、極めて意義深い事件である。

 そもそも、朝廷と大名は直接接触することは禁止されており、朝廷から下される官位のやり取りなどもすべて幕府を経由していた。ましてや、勅命が幕府を飛び越えて諸藩にもたらされることなど、言語道断な行為であった。幕府にとっては、朝廷と結びついた勢力に政権を奪われる可能性も出てくるわけで、これだけは許せない政治案件なのだ。

 孝明天皇はこの密勅の中で、勅許がないにもかかわらず、幕府が通商条約に調印したことを強く非難し、御三家および諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、また幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命令した。本来の勅諚は、関白の裁可を経て幕府に伝達されるものであるが、今回は関白をスキップして幕府でなく水戸藩に下賜されるという前代未聞の形式であるだけでなく、内容的にも幕府の面目は丸つぶれであった。