(町田 明広:歴史学者)

◉渋沢栄一と時代を生きた人々(21)「東京遷都①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67165)

旧勢力と新勢力の指導権争いの暗闘

 今回は、大久保利通の大坂遷都論を中心に見ていきたい。そもそも、大久保ら藩士は王政復古クーデターから遅れること3日、慶應3年12月12日(1868年1月6日)、参与職に就任して正式に政府会議(総裁・議定・参与からなる三職会議)のメンバーとなった。

 しかし、その僅か2日後の14日、議定の嘉彰親王から建議が提出されたが、その内容は無位無官の者が禁裏御所に出入りするのを禁じ、身分の低い者が跋扈している状態を改めることを強く要望するものであった。これは、特権階級による巻き返し戦略に他ならない。

 これを受けて翌12月15日、参与職が上参与(公家)と下参与(藩士)に早速分けられた。さらに23日、官位のない下参与が小御所での政府会議に出席することを遠慮させる沙汰があった。また、新政府の実質的なナンバーワンである岩倉具視についても、ようやく27日になって、参与から議定に昇進している。王政復古クーデター後も、そう簡単には権力移行は叶わなかったことになる。

 この状況を一変させたのが、慶応4年(1868、9月8日に明治元年に改元)1月3日から6日にかけて、新政府軍と旧幕府軍が激突した鳥羽・伏見の戦いであった。これは戊辰戦争の端緒にして、最も重要な戦闘であった。戦争の詳細については、諸書に譲ることとするが、これが画期となって薩長両藩勢力が一気に新政府の中心に座り、三条実美・岩倉具視を軸とする新体制も整い始め、旧勢力を徐々に駆逐し始める。

 1月13日、九条邸に太政官代(仮の太政官)が置かれ、それまで一条院里坊に置かれていた参与役所も九条邸に移された。これによって、政府会議も九条邸で行われることになり、下参与も参加が可能となった。但し、17日に官制が定められ、上議事所(総裁と議定が議事官)と下議事所(参与が議事官)に分けられたため、そう簡単に公家・諸侯と藩士という、これまでの上下関係の差は解消できなかったのだ。