明治天皇による「万機親裁」の実現に向けて

 ここからは、その後の政治動向を見ていこう。閏4月21日、政体書が布告された。これは、副島種臣と土佐藩出身の福岡孝弟が米国憲法などを参考に起草したもので、明治初期の政治大綱である。4月11日に江戸城は開城したものの、奥羽・北越地方では交戦が続いていたが、関東地方以西をほぼ掌握した新政府が、それまでの臨時政府的な三職体制に代えて、新たな官制として定めたのだ。最初に五箇条の御誓文を掲げており、これを新政府の基本方針として位置づけた。国家権力を総括する中央政府として、立法・行政・司法の三権分立を唱えた太政官を正式に置き、2名の輔相(三条実美・岩倉具視)をその首班とした。

 閏4月22日、いわゆる「万機親裁の布告」が出され、天皇が「万機之政務被為聞食候」と宣告される。『太政官日誌』によると、「これまで後宮御住居の御事に候処、先般御誓約(五箇条の誓文)の御趣旨も有之、傍の思召しをもって、以来御表御住居被為遊、毎日御学問所へ出御、万機の政務被為聞食候間、輔相より奏聞を遂候よう仰付けられ候(略)時々八景の間(輔相の詰所)へ臨御も被為在、御清暇(政暇)には文武御研窮」と細かに天皇の在り方が規定されている。極めて能動的・積極的な姿勢であり、西欧的な君主像である。

 早くも新政府の成立当初の段階において、天皇の「万機親裁」は明治政府の最も重要な政治理念として定まったことになる。これは太政官布告であることから、国民すべてを対象として、これからはこのような天皇になることを宣言したのだ。しかし、もう一つ重要な事実を見逃してはならない。こうした理想の天皇像に明治天皇が近づけるように、天皇を教育し、そのための改革も断固として実行するということを、政府として合意したとの決意表明に他ならない。