(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(前編)
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63911)

豊臣秀吉と毛利輝元の攻防

(前回から)備中高松城攻め・本能寺の変・中国大返しについての事実関係を整理してみよう。まず、城攻めという戦闘形態は、双方の作戦や思惑やぶつかりあった結果であって、ある日突然起きるものではない。高松城の水攻めもそうである。

 もともと、備前・備中の国境地帯において、織田方(秀吉&宇喜多軍)と毛利方との間で、さまざまな戦術的駆け引きが展開し、劣勢に回った毛利方が、結果として高松城に押し込まれてゆく戦況となったため、秀吉は高松城を囲んだのだ。

 この事態は、毛利方としても放置できない。高松城を見殺しにすれば、備中の国衆たちが雪崩をうって織田方に転じてしまうからだ。そこで、毛利輝元は高松城の救援に向かう決意を固め、毛利軍の主力を率いて出陣してきた。

 ここまで、備中戦線を優位に進めてきた秀吉ではあったが、毛利軍の主力が本気で押し出してくれば、さすがに勝ち目はない。そこで、信長にSOSを出した。この使者が安土に着いたのが5月15日。折から徳川家康が、武田討伐の御礼言上のため安土を訪れていた。

 報告を受けた信長は、毛利軍の主力が出てきているのなら、一気に決戦に持ち込むチャンスと考え、備中戦線への出陣を即決した。このあたりの決断の速さは、長篠合戦の時とまったく同じである(2020年10月20〜22日掲載の長篠合戦記事参照)。

 そして、自分が現地に着くまで秀吉が戦線を持ちこたえられるよう、当座の手当として明智光秀を送り込むことにした。ゆえに、光秀は家康の接待役を解かれたのだ。