文=吉村栄一 協力=KADOKAWA

 また遠足から寄り道ですみません。

 今回、3月12日に上梓したイエロー・マジック・オーケストラ、YMOの伝記本の紹介をしてよろしいということで、お言葉に甘えて本について触れさせていただきます。また、出版社(KADOKAWA)の好意で、本の一章をまるまるここで公開いたします。

 本のまえがき、あとがきなどでも書いているよう、この本はもともと、2013年に21世紀に再再結成したYMOの活動が一段落し、その21世記のYMOの記録をまとめておこうと思ったことがきっかけでした。

 が、その準備を進めていくうちに、やはり21世紀のお話だけではなく、その前段である20世紀、すなわち結成から解散(散開)までの1970〜1980年代のYMOの記録もなければ始まらないと思い至りました。

 最初は自分自身がライヴの立ち合いやインタビューも何度も行った21世紀のYMOの話だからと気軽に考えていましたが、20世紀のYMOとなるとまとめるのが大変です。なんといっても、その頃のぼくは福井県福井市という、当時民放テレビは2局、FMラジオはNHKのみという地方都市に住む10代でした。YMOは憧れを持って眺める遠い存在。その音楽や立ち居振る舞いに熱狂しながらも自分の人生とは接点があるはずもない。

 はるか遠い場所から見つめる憧れの存在で、生身の人間という実感はありません。あくまでメディアというフィルターを通した存在でした。

 それでも、その後に大学進学を機に上京し、出版の世界に関わるようになって次第に音楽の世界、そしてYMO周辺とも縁ができるようになったのは幸いでした。

YMO神話に決別

 1990年代にYMOが一時復活した頃にはインタビュー取材をしたり、関連書籍を編集したり。そこでの縁は、21世紀に入り、YMOが再び復活すると、ありがたいことにさらに濃いものとなりました。いろいろなお仕事をご一緒させてもらい、貴重なお話をうかがう機会もたびたび。

 しかしそうした、ようやく生身の存在と実感できたYMOと、1980年代の“あの”YMOとそれを取り巻いた状況の空気(それはすなわちテクノポリス東京の空気と言ってもいいでしょう)との距離感は変わらないままでした。

 今回、1980年代までのYMOをあらためて捉え直そうと思ったとき、いちばん重要だったことは、生身の実感がない遠い存在だったがゆえに、額面通りに受け取っていた、いわゆるYMOの神話を頭から追い出すことでした。

 YMOは解散(散開)後の1980年代半ばから1990年代にかけて、「YMOとはこうだった」「こういう存在だった」とそのカリスマ性を補強するような真偽不明のエピソードや検証なしの論があまりにも多く流通し、神話を形作っていました。

 YMOのメンバー自身もいつしかそれらの神話を自らの記憶の上書きとしている面もなきにしもあらず。そのため、自分で編集したり関わったりしたものも含め、今回はYMOが散開して以降に編まれた1980年代までのYMOに関する書籍や著作物は一切参考にしませんでした。

 あくまで当時の、リアル・タイムの報道や情報(それらのうち多くも、誤っていたりバイアスがかかったものが多かったのですが)と、当時間近でYMOにかかわった人々への取材から浮かび上がる事実を軸にしました。

海外進出の真相

 YMOの神話に関するものでは、なによりも海外進出とその成功に関するものが多いと思います。90年代に完成した神話に、近年は“クール・ジャパン”や“日本すごい”系の見方による偏向がさらに加えられているような気もします。

 YMOの海外進出はたしかにすごかった。しかしそれは、神話になっているようなまばゆい華々しさよりも、メンバー本人たちと周辺の関係者による、もっと泥臭い、努力と創意のなせる技でした。そしてそれはまぎれもなく、戦後の日本の復興と相似形で、昭和の、汗まみれの海外進出の物語。

 そうした、海外進出の実相をあらためて浮き彫りにするため、本書では当時の海外の関係者にあらためてインタビューを行い、さらに海外におけるYMOに対する報道記事や広告類を多く蒐集しました。それによって浮かび上がってきたのは、1970年代末から1980年代初頭にかけての、海外から見た日本のイメージが変換されようとしていた、まさにそのときYMOの海外進出が行われたということでした。好意がありつつも誤解とディスコミュニケーションの上になりたった日本のイメージとYMO。これは今日でも、21世紀のYMOをめぐる環境でもいまだ解決してないような気がします。

 こうして、第一部はYMOの過去を遡る旅となりましたが、第二部は逆に、ぼく自身が取材して見聞きしたYMOのメンバーによる証言が核となっています。メディアというフィルターを通さず、自分の目で見て、耳で聞いた21世紀のYMOの歴史。

 20世紀とちがって、恒常的に活動するのではなく、ときどきに集まって音楽を奏でた21世紀のYMOは、だからそのときどきに報道されることによって点としての活動は見えましたが、その全体像をまとめた記録はこれまでなかったと思います。

時代とシンクロするYMO

21世紀のYMOはそのときどきの断続的な活動であることで、逆に惰性的なあり方ではなかったということでもあります。

 やるべき意義があるときだけYMOをやる。

 21世紀に復活したYMOの活動にチャリティ目的のものが多いのはそのためでしょう。

 気候変動や原発事故、戦災、病気のこどもとその親への支援。

 1980年代までの尖ったYMOとはまたちがう顔がそこにはありました。

東日本大震災のような社会を揺るがす大災害もYMOの活動に大きな影響を与え、時代とシンクロせざるを得ないアーティストとしてのYMOの姿も描写したつもりです。

 こうした活動の足跡はなんとしてでも記録として残すべきだと思ったのも、この本の執筆の動機のひとつでした。

 YMOは2007年にその名義を復活させて2013年までYMOとしての活動を行ないましたたが、その間、メンバー3人が揃って取材を受けたり、公開で話をした機会は稀。

 ぼくの記憶ではたぶん6回。そのうちのひとつは2008年のロンドン公演の際に海外のメディアからのインタビューで、それと2007年のNHKによるテレビ・インタビューを除くと、3人が揃ったYMOとしてのインタビューは僥倖にもぼくが聞き手になることができました。

 それ以外の、メンバー3人の個々のYMOの活動に関するインタビューもまじえ、この第二部では後世に残すべきYMOの発言を書籍という形で残せたかなと少しほっとしています。

そんなYMOの歴史を綴った本書の中から、今回はYMOが海外に飛び出した最初を描写した第一部第二章を紹介いたします。

第2章

イエロー・マジック・オーケストラ、ついに世界へ

トミー・リピューマとホライズン・レーベル

 トミー・リピューマは1936年にオハイオ州で生まれたアメリカ人音楽プロデューサーだ。

 20代の半ばから音楽の仕事に携わるようになり、以降はオハイオの独立レコード会社を皮切りに、マーキュリー、リバティー、A&Mなどいくつものレコード会社の仕事をするようになる。1970年代にはジョージ・ベンソンの『ブリージン』ほか、クインシー・ジョーンズ、アル・ジャロウなどヒット作のプロデュースで名前が知られるようになった。

 1978年の秋には再びA&Mに所属して、副社長兼、A&M内レーベルの“ホライズン”のクリエイティヴ・ディレクター、統括責任者の任にあった。

 1978年にアルファレコードと契約したA&Mレコードは、日本のフュージョン・ブームを知り、それらの中の有望なアーティストをホライズン・レーベルから全米、ワールド・ワイドにデビューさせる計画を持っていた。世界的に盛り上がりを見せていたフュージョンであれば、ポップスとちがい言葉の壁がなく、ジャズやフュージョンの分野での日本人プレイヤーの技能の確かさもトミー・リピューマが主な仕事の場としているニューヨーク(A&Mがあるロスアンジェルスではなく、トミー・リピューマが手がけた多くのアルバムはニューヨークで制作されている)では知られてもいた。

 ただ、このときトミー・リピューマの中には日本のアーティストに関する具体的な情報はまだほとんどない。季刊『アドリブ』誌1978年冬号のインタビューでは、日本のアーティストで知っているのは、交遊関係のあるジャズのミュージシャン兼プロデューサーのマイク・マイニエリから教えてもらった渡辺香津美のみだと語っている。まだこの時点では、その渡辺香津美がアルファレコードからデビューするイエロー・マジック・オーケストラというバンドのライヴにギタリストとして客演しているということも知らない。

 ともあれ、トミー・リピューマは日本のアーティストのデビューのための音楽状況の視察もかねて、1978年12月に来日することになった。A&Mレコード所属のニール・ラーセンが出演するアルファ主催の音楽イベント『フュージョン・フェスティバル』にタイミングを合わせてのものだった。トミー・リピューマがプロデュースしてきたほとんどのアルバムでエンジニアを務めているアル・シュミットも同行していた。

アルファ・フュージョン・フェスティバル

 この年の12月2日から10日に渡って新宿の紀伊國屋ホールで行なわれた『フュージョン・フェスティバル』はA&Mレコードとの契約を勝ち取ったアルファレコードのこれからを華々しく紹介するお披露目イベントでもあった。キャッチ・コピーは「We Believe in Music 」。

「フュージョンを代表するスーパー・ミュージシャンが繰り広げる音楽の祭典! そこには来るべき80年代のミュージック・シーンの予感ときらめきが乱舞する。(A&Mホライズンの名プロデューサー、トミー・リピューマがニール・ラーセンと共に来日!)」

 広告などでこう銘打たれたイベントは次のような日程と出演者で開催された。

・12月2日(夜のみ)
 大村憲司/ニール・ラーセン

・12月3日(昼、夜)
 吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月4日(夜のみ)
 吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月5日(夜のみ)
 細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ/ニール・ラーセン

・12月6日(夜のみ)
 吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月7日(夜のみ)
 大村憲司/ニール・ラーセン

・12月8日(夜のみ)
 吉田美奈子/ベナード・アイグナー/渡辺香津美/深町純

・12月9日(昼、夜)
 大村憲司/ニール・ラーセン

・12月10日(夜のみ)
 細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ/ニール・ラーセン

 ベナード・アイグナーは、クインシー・ジョーンズらとの仕事で評判だった黒人シンガー&キーボーディスト。吉田美奈子がセカンド・アルバムでアイグナーのヒット曲のカヴァーを歌うなどして日本でも知られ、この1978年にはアルファレコードから渡辺香津美、深町純、村上秀一らをバックに迎えた日本オリジナルのアルバム『リトル・ドリーマー』を制作していた。

 当時、アルファでこのベナード・アイグナーのレコード制作を担当していた宮住俊介は、2000年代に開設したブログで、この『フュージョン・フェスティバル』について、興味深い記述をしている。

 当初、この『フュージョン・フェスティバル』にはイエロー・マジック・オーケストラの出演は予定しておらず、それ以外の出演者でイベントを発表したところ、売れ行きが芳しくなく、そこでイエロー・マジック・オーケストラを急きょブッキングしたという内容だ。

 チケットの売れ行きが不振なのは、出演者がこの頃まだ知名度が足らなかったからだという分析があったらしい。

 もちろんイエロー・マジック・オーケストラにしたところで、ブッキングした時点ではファースト・アルバムの発売をしたばかりのバンドで知名度という点ではゼロに近い。前章にあるよう、イエロー・マジック・オーケストラのプロモーションに困って、しかたなくフュージョンというくくりにしてこのイベントにブッキングしたという経緯もあった。

 しかし、これも先に紹介したようにイエロー・マジック・オーケストラのデビュー・アルバムの発売時は、アルファはイエロー・マジック・オーケストラを固有のバンド、グループというよりは細野晴臣のプロジェクト的な広報、宣伝をしている。

 海のものとも山のものともつかない新人グループではなく、はっぴいえんど以来、数は多くなくてもそれなりの固定ファンのついている細野晴臣のファンにまず目を向けてもらおうという戦略だ。

 宮住俊介のブログにもこうある。

「背に腹は代えられない。(イエロー・マジック・オーケストラは)フュージョン・ミュージックとはまったく無縁のサウンドではありましたが(中略)350人ぐらいの小さなホールですから、細野さんの信奉者だけでも、なんとか2日くらいはいっぱいになるのではないか。(中略)期待通り(?)YMOの出演する2日間は、あっという間に完売しました」

 実際にこのイベントの告知の広告でも、イエロー・マジック・オーケストラは「細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラ」という、細野晴臣の名前を前面に出した表記になっている。

 この回想をもとに、9日に渡る『フュージョン・フェスティバル』の座組をあらためて見直すとわかることがある。

 招聘したA&Mレコード所属アーティストであるニール・ラーセンと組になっているのは大村憲司とイエロー・マジック・オーケストラ。

 そう、ニール・ラーセンと組になっているのは、まず大村憲司。ニール・ラーセンとともに、ホライズン・レーベルのトミー・リピューマがやってくる以上、トミー・リピューマに大村憲司というアーティストとその音楽を印象づけたい。これは当然だろう。この頃にアルファレコードがホライズン・レーベル、ひいてはその親会社のA&Mレコードから世界デビューさせたいアーティストの筆頭は大村憲司だったのだから(渡辺香津美はアルファレコードからリリースしてはいたが日本コロムビアの専属アーティストになっていた。このことも後にイエロー・マジック・オーケストラの運命に大きく関係する)。

 その一方、ニール・ラーセンの出演するステージで客席に空席が目立ってはアーティストにもトミー・リピューマにも面目が立たない。そこで350席完売まちがいなしの固定ファンがいる細野晴臣のイエロー・マジック・オーケストラと組ませる。

 こうした配慮のもとでの座組だったのだろうが、これが運命を開いた。

 もちろん、イエロー・マジック・オーケストラのだ。