(乃至 政彦:歴史家)

「御館の乱」における上杉景虎の戦略(後編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65399

御館の乱勃発する

 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が亡くなった。その約2ヶ月後、後継者となった初心者マークの上杉景勝に、最初の試練が訪れる。難易度はそれほど高くない。会津の蘆名止々斎が軽く侵攻を企てただけのことだ。だが、景勝は適切に即応しようとした三条城主・神余親綱を厳しく叱責してしまう。初っ端からのファンブルだった。

 怒りに震える親綱は、栃尾城主・本庄秀綱、そして御館城主・上杉憲政と一緒に、反乱を決行した。5月5日、「大場」の地にて、上杉景勝の拠点・春日山城の軍勢と、反乱軍の拠点である御館城の軍勢が激突する。これには辛うじて景勝が勝利した。だがその先の御館城は謙信時代から堅固に作られており、その義父だった憲政がいるので、さすがに景勝もこれ以上攻められずにいたようだ。

 そこへ大きな悲劇が引き寄せられる。5月13日夜、景勝義兄の上杉景虎が、御館へ出奔したのだ。景虎は反乱軍の旗頭として、大いに歓待された。景虎が景勝を見限った理由は定かではない。この問題を、反乱軍の側に義ありと見たのだろう。ここに「御館の乱」が勃発する。

 景虎が御館に入ると、反乱軍に味方する者が続出した。5月16日に、信濃の桃井義孝・堀江宗親らが連れた軍勢は圧倒的であった。これを見た景虎は即決する。その翌日、春日山城を一気に制圧すべしと、桃井らを進軍させたのだ。