昔から、ずっと考えていることがある。

「受け入れられないもの」「異質なもの」を、どう排除しないで日常に取り込んでいくか、ということだ。

 今の時代は、「共感できるもの」ばかりが広まってしまう世の中だ。昔から、当然そうだっただろうが、SNSなどの広がりによって、その傾向は加速度的に強まった。そのこと自体は、良いことだと思う。しかしその傾向が強まることで、「受け入れられないもの」「異質なもの」が、本人が意識しなくても自然と日常の中から排除されていってしまう、ということが、僕は怖いな、と感じられる。

 かつて学校というのは、気が合わない人間ともなんとか友人関係を結ぶ場だった。距離的に近い場所にいる人間としか出会う機会がなかった以上、共感しにくい相手ともどうにか折り合いをつける作法を、僕らは日常の中で身につけていったはずだ。

 しかし今は、学校で無理して友人を作らなくても、ネット上で気の合う仲間を見つけられる。そうなればなるほど、気の合わない人間と関わる意欲がどんどん薄れ、自分の周りには共感できるものしかない、という状況を生み出せる。それは怖いことなのだと僕は感じてしまうのだ。

 すれ違う、共感できない、理解できない・・・。そういう、現代では斬り捨てられてしまいがちなことの大事さが伝わる3作品を紹介しようと思う。

感情が「見える」のにすれ違い

『か「」く「」し「」ご「」と「 』(住野よる著、新潮社)は、5人の高校生を描く物語だ。5人全員が、何らかの形で他人の「感情」を視覚的に「見る」ことができる。たとえば5人の内の1人は、他人の頭の上にトランプの柄が見える。スペードは「喜」、ダイヤは「怒」、クローバーは「哀」、ハートは「楽」を表していて、それを見れば誰がどんな風に感じているのか、ひと目で分かるのだ。

 5人全員がそういう特殊な能力を持ち、さらに5人全員がそういう特殊な能力を持っているのは自分だけだ、と感じている。そういう設定の中で何が起こるのかを描き出す群像劇だ。