(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)

 現在、「男らしさ」を主張する風潮は廃れている。中年が「男は」「女は」といいだすと、「そういう言い方はもうしないほうがいいですよ」と若者から諭されてしまう(そういうかれらに人気なのは、もっと胡乱な「自分らしさ」である)。

 たしかに「男にする」だの「男になる」だの「それでも男か」と、なにかにつけやたら「男」を連発する者は、ろくでもないやつが多い。そのような「男らしさ」は自分を律するものではなく、他人を思い通りの型にはめようとするものだからである。「男らしさ」が他人への要求・命令・禁止として使われるとき、そのほとんどはすべて「有害な男らしさ」となる。

 だからといって、男と女が画一的になれるわけでもない。やはり違いはあるのだ。一番の違いは、身体的な大きさと強さである。だから単純にいってしまえば、「男らしさ」とは「剛(つよ)さ」であり、「女らしさ」は「柔らかさ」であるといっていい。ただし「剛さ」は粗暴な強さではないし、「柔らかさ」とは従順な弱さではない。そこには歴史と文明による精神的なものが入っている。

 そして男女は相対的なものだから、この「剛」と「柔」は陰陽マークのようにお互いを包摂しあっている。この「剛さ」がなければ父親への憧れはないし、この「柔らかさ」がなければ母親への思慕はない。

「有害な男らしさ」はなかなかなくならない

 はじめて知ったのだが、11月19日は「国際男性デー」ということになっているらしい。3月8日が国連主導の「国際女性デー」ということは知られている。しかしこちらの「国際男性デー」はトリニダード・トバゴが発祥らしく、素性が怪しいのだが、世界では米国・英国・日本・中国など36か国が参加している。また意味のないつまらないことをはじめやがって、と思うのだが、これに関連するネット記事を目にした。(男らしさが苦しくて 19日「国際男性デー」 「大黒柱」「仕事第一」…刷り込み重荷、中國新聞デジタル、2020/11/18)

 この記事には職場や学校や家庭で「男らしさ」を押し付けられて生きることの息苦しさが、例を引いて取りあげられている。「『男らしさ・女らしさ』という考えは社会が作り出す性差だ。無意識な『刷り込み』や『押し付け』」はあちこちで存在する」。男ならいい大学を出とけ、男は泣くな、男はデートのときは女性におごるのが当然、そのくせ「いつもは男女平等を訴えている女性たちに、都合のいいときだけ「男らしさ」を求められることに納得がいかない」などである。

 最近よく聞くことばかりである。わたしも刷り込まれていて「男は泣くんじゃない」とは思う。だからといって、男だって泣いていいんだよとか、苦しいときは苦しいといっていいんだよ、という人間がいると、うるせえ、と思う。なんの資格があって許可しているのか。そういわれて、楽になりました、という男はいるのか。もし嫌な「男らしさ」があるのなら、自分で考え、自分で解体すればいいだけの話だ。

「有害な男らしさ」は、同性に向かうときは「パワハラ」となり、女性に向かうときは「セクハラ」となり、自分に向かうときは自己嫌悪となる。戦後70年、その弊害がいわれてきたが、しかしこの「有害な男らしさ」がなくなることはない。バカな親や少年スポーツのバカなコーチから、その「有害さ」はむしろ「いいこと」として伝承されるからである。もう「男の中の男」などいない。だからわたしは自分の語彙のなかから「男らしさ」を駆逐する。