江戸時代の日本は、一般に「鎖国」政策をとっていたと言われます。じつはこの「鎖国」という用語は、五代将軍・徳川綱吉の時代に2年ほど出島に滞在していたドイツ人の医師エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716)が著した『日本誌』のなかで使った言葉だとされます。

 より正確には、1801年にケンペルの著書の中の一部をオランダ語版から翻訳した蘭学者の志筑忠雄が、それを「鎖国論」という題にしたことが、「鎖国」という言葉の始まりでした。

 つまり、江戸幕府が「鎖国」という言葉を使ったり、公式に「他国との貿易をやめ、国を閉ざす」などと宣言したりしたことは一度もありませんでした。鎖国という言葉が一般に知られるようになるのは明治時代になってからのことでした。

日本の鎖国と中国の海禁政策、違いはどこにあったのか

「鎖国」という言葉には、なんとなく海外諸国と完全に断交したようなイメージがありますが、当時の日本は完全に国を閉ざしていたわけではありませんでした。

 日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて海外とつながっており、そこを窓口に幕府の管理下で貿易が行われていました。

 対外交易を一部の場所だけに限定する「海禁政策」は、実は当時のアジアでよく見られたものでした。要するに、民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制だったのです。たとえば中国では、明朝〜清朝の時代に海禁政策がとられていました。その時々によって厳格化されたり緩和されたりしていましたが、1757年、清朝の乾隆帝の時代には、外国との貿易を広州一港に限定し、貿易は特許を与えられた商人だけに認められ、政府が貿易の管理をする体制にしました。これは、日本の鎖国体制下の貿易と似た側面を持っていました。