連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」

 これは「上喜撰の茶をたった四杯飲めば夜が眠れない」と 上喜撰(じょうきせん)=蒸気船 である黒船が、四杯=四隻現れて、その不安から夜も眠れないというのを掛けた狂歌である。

 アメリカ東印度艦隊司令長官海軍代将マシャウ・カールブレース・ペリー(1794-1858)は嘉永6年(1853)黒船4隻を引き連れて、江戸に近い浦賀沖に姿を現わした。

 それを見た人々は右往左往の大混乱に陥った。ペリーの艦隊が江戸湾を北上して羽田沖に停泊すると、黒船が江戸の町を砲撃するという噂が広まった。

 この軍艦の脅威を背景に幕府はペリーに開国を迫られ、翌年の安政元年(1854)、日米和親条約を締結。下田と函館が開港されることになった。

 約200年間続いた鎖国体制は終りを告げ、以来、下田は開港場としての歴史を刻む。

 ペリーは日本近海の全アメリカ艦隊6隻を伊豆下田に入港させると、今度は日米修好条約の締結を迫った。

 その頃、米国に続き、オランダ、ロシア、英国、フランスが次々と幕府に開国を要求するのだが、幕府は国際情勢や国際法についての知識を持ち合わせていないため、外交交渉では相手の言いなりになることが多かった。

 幕臣の間では開国か攘夷かで大きく意見が対立していた。

船乗りの町・伊豆下田

 下田は古い港町で、風待ち港でもある。

 幕府の直轄領で下田奉行が置かれ、江戸と上方を結ぶ航路上の下田は船改(ふなあらため)番所が設置されていた。

 そこで東西を行き来する船は改められ、諸国の廻船は、必ず下田に寄港しなければならなかった。

 船乗りは一度、港を出れば、長期間、船の中で暮らすことになる。

 そのため上陸したら夜は花街へと足を運ぶ。女郎や飯盛り女たちは、性欲で爆発しそうな船乗りを相手に、枕の伽(とぎ)をすることになる。

「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」

 そう唄われるほど、下田には各地から多くの芸子が集まり、下田に立ち寄った船乗りたちは遊びに興じた。