(歴史学者・倉本 一宏)

北家より式家が有力だった藤原氏

 たまには権力者をご紹介しようか。『続日本後紀』巻十三の承和十年(八四三)七月庚戌条(二十三日)は、致仕(ちし/官職を退いて引退すること)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)の薨去を、次のように記している。

致仕左大臣正二位藤原朝臣緒嗣が薨去した。慣例によって使者を遣わし、喪事を監視し護らせることとしたが、遺言によりそれを辞退した。仁明(にんみょう)天皇が詔して曰ったことには、
「緒嗣の功績を思う朕の気持ちは心中深く、その徳を回想すると昔馴染みの思いがする。天の秩序に適った法則をすべて身につけ、人臣の盛んな人望を担った人物であった。さらに朕の幼かった頃から皇室を護り、鷹隼のような固い志をもち、事に当たっては松竹のように変わらない節操があった。哀しく死を悼み、栄誉で包もうと思う。朕の贈る栄光で冥路を照らすことができよう。そこで従一位を贈ることにする」と。

 続けてその薨伝が載せられている。

緒嗣は参議正三位式部卿大宰帥宇合(うまかい)の孫で、贈太政大臣正一位百川(ももかわ)の長子である。桓武(かんむ)天皇が延暦七年春に緒嗣を殿上に喚んで、元服を行なった。その時の冠と頭巾は、いずれも天皇の下賜品であった。そして正六位上を授け、内舎人に補任して剣を賜い、「これは汝の父が献上した剣である。汝の父の良き言葉は今になっても忘れない。一度思い出すごとに、思わず涙が出る。今、これを汝に下賜するが、失うようなことがあってはならない」と語った。ついで封百五十戸を賜い、延暦十年春には従五位下に叙され〈時に年十八歳。〉、侍従・中衛少将に任じて、常陸介・内厩頭を兼任し、俄かに衛門佐に遷った。同十六年七月には正五位下に叙され、それから十二日も経たないうちに従四位下を授けられた〈時に年二十四歳。〉。ついで衛門督に転じて出雲守・造西寺長官を兼ね、同二十年九月に衛門督を停めて右衛士督となり、同二十一年夏六月、天皇が神泉苑に行幸して宴を催すと、天皇は緒嗣に和琴を弾奏させた。天皇は大臣神(みわ)王を喚んでしばらくの間、耳語し、涙を流した。ついで、皇太子(安殿〈あて〉親王)と親王らを殿上へ召して、「緒嗣の父がいなければ、自分はどうして帝位を践むことができたであろうか。緒嗣は若く、臣下の者は怪しむだろうが、緒嗣の父の多大な功績は忘れることのできないものであり、緒嗣を参議とし、その長年にわたる恩に報いようと思う」と詔した。大臣神王はこの勅を奉じて、すぐに起って天皇の言葉を唱し伝えた〈時に年二十九歳。〉。ついで山城・但馬守を兼任し、大同元年に従四位上となり、山陰道観察使に任じられ、同二年に左大弁を兼ねた。この年、刑部卿を兼ね、東山道観察使兼陸奥出羽按察使に遷り、冬十月に正四位下に昇進した。弘仁年中に右兵衛・右衛門等の督となり、按察使を辞め、続けて美濃・近江等の守を兼ね、武官を辞して宮内卿に遷り、河内守を兼任した。ついで従三位に叙され、中納言となり、俄かに正三位を授けられて、民部卿に遷り、大納言に転じて、従二位を授けられ、皇太子傅を兼ねた。天長二年に右大臣となったが、封千戸を返上し、同九年に左大臣に転じた。弘仁以降、辞職の表を十度以上も呈出したが、三朝(嵯峨〈さが〉・淳和〈じゅんな〉・仁明天皇)が手厚い詔により、許可しなかった。緒嗣朝臣は政治に練達していて、労せずしてよく国政を処理し、国家の利害については知れば必ず奏上した。ただし、二人の人があることについて議論している時に、始めに語った者の説が正しくなく、後に語った者の説が真実であっても、先の説を確信すると、後説を容れないところがあった。この偏見への固執により、批判を受けた。行年七十。

 平安時代の藤原氏というと、どうしても北家を思い浮かべることと思うが、実は光仁(こうにん)天皇の擁立以来、薬子(くすこ)の変(平城〈へいぜい〉太上天皇の変)までは、宇合を祖とする式家の方が優勢であった。

 桓武の側近として長岡京造営に尽力した種継(たねつぐ)が暗殺されていなければ、そして平城の側近であった種継男の仲成(なかなり)が嵯峨の命によって射殺されなければ、この一門が藤原氏の嫡流となって摂関政治をリードしていたかもしれないのである(摂関政治になったかどうかはわからないが)。