(歴史学者・倉本 一宏)

天皇の労いに感激して涙を流す

『続日本後紀』の最後に、巻十九の嘉祥二年(八四九) 十一月己卯条(二十九日) に載せられた、藤原北家真楯流(またて)の傍流である嗣宗(つぐむね)の卒伝を見てみることとしよう。

左中弁従四位上藤原朝臣嗣宗が卒去した。嗣宗は故肥後守従五位下永貞(ながさだ)の長子であった。若くして大学に学び、そこから官界に入り、天長元年正月に従五位下に叙され、宮内少輔に任じられ、同二年八月に中務少輔に遷り、同四年に散位頭に任じられ、八月に民部少輔に移り、十月に少納言に任じられ、承和元年に右中弁に任じられた。

嗣宗は寒暑を厭わず、朝早くから夜晩くまで公務につき、仁明(にんみょう)天皇はその忠勤ぶりに注目して、特別の愛顧を垂れた。承和五年正月七日に天皇が豊楽院に出御するため、紫宸殿の南階において御輿に乗ろうとした時、嗣宗は少納言として鈴奏を行なうため、走って庭上に立っていた。

天皇はそこで御輿を停めて嗣宗に正五位下の位記を書かせたが、供奉する者は誰の位記か知らず、怪しんでいたところ、印を捺す段階に至り嗣宗に渡され、嗣宗はそれが自分のものであることを知り、悦びのあまり思わず涙を流した。

また、承和七年八月に至って従四位下に叙され、越前守に任じられ、任期を終了して帰京すると、妻と相語って、「自分の国への奉仕はこれで終わった。今は田舎でゆっくり暮らそうと思う」と言った。このことを耳にした傍らの人は叱声を発した。嗣宗は大変驚き、気持ちを改め自らに期した。俄かに従四位上に叙され、左中弁に任じられたが、この二度の栄誉を肝に銘じて忘れなかった。至忠に感応して天が高くひき上げないことはないのである。嗣宗は常にこのことを口癖にしていた。行年六十二歳。

 藤原房前(ふささき)三男の真楯は、天平宝字八年( 七六四) には中納言にまで上っていた。真楯を妬(ねた)んだ藤原仲麻呂(なかまろ/恵美押勝〈えみのおしかつ〉) がこの年に滅び、真楯も道が開けるかと思われたが、大納言兼式部卿で死去している。真楯長子の真永(まなが)は『尊卑分脈』にしか見えない。二男の長継(ながつぐ)は宝亀(ほうき)三年(七七二)に叙爵されたが、内兵庫正(うちのひょうごのかみ)で終わっている。三男の内麻呂(うちまろ)は、右大臣にまで上った。内麻呂の子に冬嗣(ふゆつぐ)がおり、後の摂関家につながっていくことになる。

 嗣宗は、肥後守永貞の嫡男として、延暦七年(七八八) に生まれた。母は伊氏の女と伝える。若くして大学に学び、天長元年(八二四) に三十七歳で従五位下に叙爵され、宮内少輔に任じられた。藤原北家とはいっても、この時期になると、傍流の官人は、このくらいの年齢にならないと貴族の一員となることはできなかったのである。

 その後、翌天長二年(八二五) に中務少輔、天長四年(八二七) に散位頭・民部少輔・少納言と、立て続けに枢要の官を遷任した。よほど有能で実直な勤務ぶりだったのであろう。

 承和五年(八三八) には兵部大輔を兼ねている。承和六年(八三九) に右中弁、次いで左中弁に任じられ、変わらず太政官政治の中枢の仕事を続けている。卒伝に記されている、寒暑を厭わず、朝早くから夜晩くまで公務につき、仁明天皇が忠勤ぶりに注目して、正五位下に昇叙させ、嗣宗が感激して涙を流したというのは、承和五年のことである。

 少し風向きが変わったのは、承和七年(八四〇) のことであった。この年の正月、淳和太上天皇が死去し、嗣宗は装束司を勤めた。そして八月に、従四位下に叙されて越前守として任地に下向したのである。この年、五十三歳であった。これ以上、太政官の中枢で出世することに対する、どこからか何らかのブレーキがかかったのであろう。

 そして承和十三年(八四六) に任期を終えて帰京すると、妻と語って、国への奉仕は終わったので、田舎でゆっくり暮らそうとした。ところが、元同僚はやはり、嗣宗の能力と勤務態度を評価していたのであろう、嗣宗に叱声を発したという。

 嗣宗は気持ちを改めて政務に復帰した。ただし、官としては格落ちの右中弁に任じられたのであった。しかし、そこでも嗣宗は実直に勤めたのであろう、承和十四年(八四七) に左中弁に転任され、承和十五年(八四八) には従四位上に叙されて、蔵人頭に補された。

 人間誰しも、思ったように昇進しなかったり、不本意な地位に降されたりすると、それだけで腐ってしまい、やる気のない勤務態度を取りたがるものであるが、嗣宗は違っていた。二度の栄誉を肝に銘じて忘れず、至忠に感応して天が高くひき上げないことはないのであるということを、常に口癖にしていたという。

 翌嘉祥二年(八四九)、嗣宗は卒去した。行年六十二歳。律令中級官人として、まことに天晴れな一生であった。

 なお、嗣宗は従兄弟にあたる藤原弟貞の女と結婚し、忠直・敏直という二人の子を儲けている。この名前の付け方にも、嗣宗の矜持が窺えるようである。二人とも、位階は従五位下とあるが、官職は不明である。

 これで『続日本後紀』は終わりとする。次回からは『日本文徳天皇実録』となるが、しばらくお休みをいただきたい。

(倉本 一宏)