桜の名所として定着した東京・赤坂サカスに、紅枝垂がしっかり赤みを差して花を咲かせている。暖かな4月のある午後、TBSラジオのスタジオでは、アラフィフ女性2人がマイクを囲んで話し込んでいる。差し入れのおにぎりを頬張りながら、である。

少ししてこれといったスタートの合図もなく収録に突入。これが、ゆる〜い慣例のようだ。

「TBSラジオのポッドキャスト番組『OVER THE SUN』始まりました、パーソナリティのジェーン・スーです」 「TBSアナウンサー、堀井美香……あっ」 「って、違うだろ、あなたもう辞めたじゃん!」

コラムニストのジェーン・スーさん(48)にはなからツッコミを入れられたのは、フリーアナウンサーの堀井美香さん(50)である。

彼女は27年間勤めたTBSを、3月末で退職し、フリーランスとなったばかり。つい数日前までの肩書を、思わず名乗ってしまったわけだ……。

アラフィフのみならず、いまや世代も性別も超えてファンを増やしている同番組の2月25日配信(第74)回で、堀井さんは次のように切り出した。

「3月31日でTBSを退社することになりました。『沖に出てみようかな』と。スーちゃんにも励まされ、力になり、助かりました」

堀井さんは女子アナブームの真っただ中の95年に入社し、2年目の24歳で結婚。その後、2児の母となるあいだに出産・育児休暇を取得している。そして本格復帰後の30代以降、特にこだわってきたのがナレーションなどの「読み」の部分なのだ。

そんな彼女が、安定した会社員を辞めて浮き沈みの激しいフリーの世界に、50歳にして飛び込む。節目のいま、育児と仕事に奔走していた局アナ時代について語ってもらった。



■偶然出合ったマスコミ講座が人生を変えた

堀井美香さんは、72年3月22日、秋田県男鹿市で生まれた。父(88)は地元の郵便局長を務めた人望の厚い人で、母(84)は保育士として後に保育園園長にもなり定年まで勤め上げた、ワーキングマザーだった。

母は、「家計のためだけに共働きしていたわけではなかったと思う」と堀井さんは話す。

「子どもが好きなのはもちろん、『働くことは人生を豊かにする』という考えがあったと思います。当時では珍しい、職業人でした」

学習塾には通わなかった堀井さんだが、母から課せられたのは、国語の教科書を毎朝、朗読してから登校することだった。

「教科書の『スーホの白い馬』などを毎朝3回、音読させられました。小学校4年生まで4年間です。読み忘れて学校に行くと、母が連れ戻しにきたんです」

通っていた小学校には、暖房用の石炭を備蓄する「石炭山」があり、当時は児童が毎朝、バケツに石炭を入れる当番制があった。

「私が石炭山の上にいると、下から母の声がして『美香ちゃん、下りなさい!』と。あわてて私は、石炭バケツを持って下りました」

後にアナウンサーになる堀井さんにとって、それは「読む力」をつける最大の教育になったようだ。

しかし秋田時代は、まだ「女子アナ」など将来像の視野にまったく入っていなかった。

「本当に高校生のころまで、私は将来、郵便局員になるんだと思い込んでいました。それは地元で生まれ育ったことで、現実的な将来として描いていたんだと思います」

そんな発想とは真逆の選択を、堀井さんは大学進学〜上京でする。ここが、大きな転機となるのだ。

「郵便局員が現実的な選択肢だとして、一方で女のコとしてスポットライトを浴びる憧れも、やはり持ちました。ふつうにアイドルや女優には憧れましたし。進学〜上京という選択肢は、いまから考えれば、華やかな世界に身を置いてみたかったんでしょう」

91年に法政大学法学部に入学。

「秋田大学に進まなかった時点で期待外れだったのか、東京で住む部屋を親が探してくれることもなく、いろいろバイトもしました」

卒業後のビジョンとして郵政省(当時)入省を目標に国家公務員試験の予備校にも通っていた。

3年生のときに、学内の就職課職員に「こういうのがあるんだが」と紹介されたのが、法政大学自主マスコミ講座だった。

「多くのアナウンサーを輩出している講座で、先輩には小島奈津子さん(元フジテレビ)もいらっしゃいます。6期生として入った私は、ベテランアナウンサーさんが講師の2週間に1回の発声練習をはじめ、いろいろなレッスンを受けたんです」

堀井さんの世代は、就職氷河期時代が到来するという悲観的な見通しが占めていた。後にロスジェネ世代、貧乏くじ世代などと称された同世代にあって「およそ2千500人に1人」(当時のTBS)という超難関のアナウンサー試験に合格するのである。



■「入社2年目で結婚・出産なんて信じられない」と言われ……

堀井さんがTBSに入社した95年当時、新卒で「総合職」入社する女子は同期の男子と同じペースの仕事を求められ、性別による給与などの差も見直されつつあった。まずは仕事を軌道に乗せてから結婚して家庭を持つ、という順序が一般的になり、男女格差もなくなってきた時期にあって、堀井さんは入社2年目の96年10月、24歳での結婚を選んでいる。

夫となる男性(51)は大学院修了の1歳年上で、同期入社だった。

「入社半年後くらいにお付き合いが始まりました。私は交際=結婚と思っていましたので、すぐに『結婚したいんだけど』と切り出したんですが、彼は『俺、結婚する気ないよ』って……」

しかし「運命の人だ」と感じていた堀井さんは押しの一手だった。1年後に結婚に漕ぎつけたのだ。

ほどなくして妊娠し、翌’97年6月に長女(24)を出産と、仕事を覚えるより先に結婚・出産の順番となったように思えるが……。

「でも、それが当時の私には自然なことというか、地方で生まれ育って、同年代の結婚も、みんな早かったですから……」

しかしそれは会社ではさぞ常識外れに映ったことだろう。間接的に耳に入る「入社2年目で結婚・出産なんて信じられない」という非難に堀井さんは傷ついた。

「いけないことだなんて夢にも思っていませんでしたから、妊娠中もなんだか周りから責められているみたいで、かなり落ち込みました。『私がこの子を守る』と意を固めた出産だったんです」

00年7月には長男(21)も出産。一男一女の子育てについて、堀井さんが振り返る。

「長女のときは丸1年、育休をいただいて、母子2人でいる時間を長く持つことができました。長男の出産の際は、2人目で少し余裕も出ましたし、半年間の育休後に時短勤務で職場復帰しました。

夫は出張があったり仕事が忙しい時期でしたので、ほぼワンオペ育児といえばそうでしたが、ぜんぜん苦にはならなかったんです」

それには、子ども好きで保育士として働き続けた母の背中を見て育ったことが、大きかったかもしれない。

育児と仕事を両立するワーキングマザーの立場で考えると、育休や時短など、TBSのシステムはかなりの配慮がなされていた。

それでも大小の綻びは出るものである。大事な番組収録がある日に幼い長男が急に発熱して、病児保育も受け入れが整わなかった。

ようやく見つけたベビーシッターに預けてスタジオに向かうも、あえなく遅刻で当時の上司に一喝された。

「私の顔を見るや、『なにやってんだ、そんなんでよく母親が務まるな』って。帰宅の電車の中で、涙が止まりませんでした」

アナウンサーとしては是が非でも立ちたい月〜金の夕刻ニュース枠のオファーが舞い込んだときには、泣く泣く断った。

「夕方のニュース終わりで帰宅すると、家に着くのが21時を過ぎてしまいます。夕飯は自分で作りたいので、お断りするしかなかったんです」

自らの思いで「子ども優先」で来た両立生活だったが、それでも長男が小学校を卒業するころには、時間に余裕が出てきた。

「子どもがだんだん手がかからなくなってきて、いただくオファーを断る理由がなくなっていくんですね。そうしてどんどん、仕事が回りだしました。お仕事をいただけるありがたさを、より実感できたんです」

以降、憧れの番組だった『世界遺産』のナレーションの仕事を掴むために、1行だけのナレーションやスポンサー提供を読む仕事などからキャリアを積み、ついに本編ナレーションに抜擢。

「3年くらいかかったと思います」と話した堀井さん。

「不安だから努力する。努力しても不安になるからまた努力する。どんな小さなコピー読みでも、自分が満足できるパフォーマンスができるまで、徹底的にやるという思いでした」

気づけばアラフィフ世代に。TBSでできる仕事を積み上げ、進退を考えるタイミングに来ていた。せっかくつかんだナレーションでの定評も、後輩の育成を考えれば譲っていくべき立場だった。

さらに……。

「博物館の音声ガイドや、映画の予告ナレーションのオファーをいただいたんですが、立場上、お断りするしかないことが続きました。これ以上は、社員の立場ではできないなと思い始めていたんです。

また、長女が就職し長男も大学生となったこと、私自身の会社での立ち位置選択に迫られたこと、50歳という節目……さまざま重なって、選択肢のなかから出てきたのが『退社』『独立』でした」

大事に守ってきた子どもたちは成長し、後輩も育ってきた。そんな環境が背中を押し、堀井さんは50歳での独立の決意をした。

【後編】50歳の大冒険! 元TBS堀井美香アナ語る、独立し「沖に出る」覚悟 へ続く

(取材・文:鈴木利宗)