「ご成婚記念日だった6月9日の前日、雅子さまは予定されていたご養蚕行事『初繭掻き』を取りやめられました。宮内庁によれば、“腰に少し違和感がある”とのことでした。雅子さまのご体調について、不良な体の部位が明確に公表されるのは珍しいことです。

当日は外務省の総合外交政策局長からの進講は受けられており、また『初繭掻き』も3日後の11日には無事に行われましたが、やはり心配ですね」

そう語るのは、皇室担当記者。

6月9日に29回目のご成婚記念日を迎えられた天皇皇后両陛下。実は、寿ぐべき日を目前にして漂った“不穏な空気”は、雅子さまのご体調不良ばかりではなかった。

「6月1日に寬仁親王の著書『ひげの殿下日記』が出版され、静かに波紋を広げつつあるのです」(前出・皇室担当記者)

昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁親王(’16年に薨去)と百合子さまの長男として誕生された寬仁さま。ラジオDJとしても活躍されたり、アルコール依存症であることを公表されたりするなど、“異色の皇族”としても知られている。

前出・皇室担当記者が続ける。

「ざっくばらんなお人柄で、“ひげの殿下”と呼ばれ、国民からの人気も高かったのです。晩年は次々と発症したがんと闘い、’12年6月6日に薨去されました」

没後10年となる今年6月6日に、十年式年祭の「墓所祭」が営まれたのだが……。

「99歳となられた母・百合子さまをはじめ、長女・彬子さまや次女・瑶子さまらが参列されました。しかし、妃の信子さまのお姿はなかったのです。

寬仁さまのご生前から信子さまとのご夫婦関係はよくなかったそうです。信子さまが寬仁さまのご看病にも消極的だったことから、彬子さまや瑶子さまとの確執を生んだとも報じられています」(前出・皇室担当記者)



■皇位継承問題についても持論を展開されていた寬仁さま

没後10年を機に出版された『ひげの殿下日記』(小学館)を監修されたのは彬子さま。

「寬仁さまは会長を務めていた福祉団体『柏朋会』の会報にエッセイを執筆されていました。その内容は障害者福祉から、お嬢さまたちの育児、宮家職員との交流まで多岐にわたります。そうした寬仁さまが遺された文章をまとめたのが『ひげの殿下日記』なのです。

ご本人いわく“身内の小冊子”ということで、かなり自由にかつユーモラスに執筆されていたのですが、“皇統の問題”についても、複数回にわたって記述されているのです」(前出・皇室担当記者)

天皇陛下や皇族方が、公の場で政治的な発言をされることはほとんどなく、特に“男系を維持すべきか”“女性天皇を認めるべきか”といった、皇位継承問題についての発言は実に少なかった。

だが寬仁さまは例外で、会報に寄せた文章でも男系男子による継承をはっきりと求められている。

《二六六五年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのかどうかです》(’05年9月30日付)

《「女系」を認める事は、婿殿の血族をも認める事で、長いスパンで見れば、普通の家系図とそれ程変わらなくなります。その時人々が、神話時代の神武天皇以来、連綿と続く、「万世一系」が途切れた皇統を尊重してくれるか甚だ疑問です》(’10年6月30日付)

前出・皇室担当記者によれば、

「’05年、小泉純一郎首相(当時)の諮問機関『皇室典範に関する有識者会議』の議論により、女性・女系天皇容認論が社会的に盛り上がりを見せ始めていました。

寬仁さまはその動きに危惧を抱かれていたのです。ほかにも《いつの日か、「天皇」はいらないという議論に迄発展するでしょう》と、書いていらっしゃいますが、“男系を維持し続けなければ支持を失って、皇室は滅びてしまう”と、予言されていたわけです。

寬仁さまは、歴史上存在した一代限りの“女性天皇”については認められています。しかし多くの男系維持派は、“女性天皇誕生は女系天皇(母方にのみ天皇の血筋を引く天皇)につながる”として、支持していません。寬仁さまもご存命であれば“愛子さまを天皇に”という意見には“皇室消滅につながる可能性がある”として反対されたことでしょう」

なぜこうした考えに至られたのか? 寬仁さまにお話を伺ったこともある宮内庁関係者はこう語る。

「寬仁さまご本人は『歴史学者の父・三笠宮も男系維持を主張しているから』と、おっしゃっていました。皇統の問題に関する皇族の“肉声”は大変貴重です。保守系の学者や政治家も“寬仁さまも男系男子による皇位継承を訴えられていた”と、いまも自分たちの主張のよりどころにしているのです」

だが静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう言う。

「126代の今上陛下までの系図が確定したのは明治以降のことです。初代の神武天皇も女神とされる天照大神の子孫です。また系図についても、神武天皇から何代目までかは実在しなかったという学説などがあり、万世一系で男系が維持され続けてきたという論拠も崩れ始めているのです。

また私は、男系論者の一部が、愛子さまと旧宮家男系男子との結婚を、皇位継承問題の解決策として主張していることを危惧しています。男系を維持するために、愛子さまの人生を犠牲とするようなことは、国民の1人として絶対に避けるべきとも考えています」



■天皇陛下には“人格否定発言”のご説明を求める手紙を

昨年末に皇位継承をめぐる政府有識者会議の答申が出されたが、その柱の1つが“旧宮家の男系男子が養子として皇籍に復帰する”という案なのだ。寬仁さまも、男子皇族を絶やさないためとして、’05年の「柏朋会」の会報で男系論者の主張とかなり近い提案をされていた。

(1)臣籍降下された元皇族の皇籍復帰。 (2)現在の女性皇族(内親王)に養子を元皇族(男系)から取る事が出来る様に定め、その方に皇位継承権を与える。 (3)元皇族に、廃絶になった宮家の祭祀を継承して戴き、再興する。

こうした案について前出の宮内庁関係者は次のように語る。

「政府有識者会議では、女性・女系天皇については答申がありませんでしたが、国民からは“愛子さまを将来の天皇陛下に”といった声も上がっているのが実情です。

6月10日に発売された『文藝春秋』7月号にも、《「愛子天皇」を諦めない》と題した鼎談が掲載されていますが、そうした声を受けてのことだと思います」

かつて寬仁さまが、皇太子時代の天皇陛下に苦言を呈されたことも話題になった。

「’04年に天皇陛下が『雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあった』と発言されました。このご発言に対して寬仁さまは、詳しい説明を求める長文の手紙を書かれたのですが、期待したようなお返事はなかったそうです。

のちにニューヨーク・タイムズの取材に対して、『皇太子からは“貴重な意見に感謝する”という返事しかなかった。こちらの求めに応じてくれたなら、少しは前に進めただろうに』と、陛下を責めるような発言をされています。またこの際も“いかなる犠牲を払っても男系を維持すべき”と持論を展開されました。

“愛子さまを天皇に”という声が高まるいっぽうで、薨去されて10年を経た寬仁さまのお考えが、随想集として出版されたことで再注目されつつあることに、不思議な因縁を感じますね。男系維持派が寬仁さまのご主張を“皇室全体のご意見”と飛躍させて利用していく可能性も高いと思います。

特に内親王と旧宮家男子との結婚を実現させようとする動きが加速することに対しては、天皇陛下や雅子さまも暗然たる思いを抱かれているのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)