今年1月19日に現役引退を発表し、25年にわたった第一線のキャリアに終止符を打った、サッカー元日本代表MF橋本英郎氏(43)。アカデミーから20年にわたって携わってきたガンバ大阪では、遠藤保仁選手(現、ジュビロ磐田)らとともに黄金期の中盤を形成したガンバのレジェンドだが、その後、6クラブを渡り歩いたなかで、初めての移籍先となったヴィッセル神戸で、大きな挫折と「43歳まで続けられる原動力になった」きっかけを得たという。
大阪府立天王寺高校や大阪市立大学(現、大阪公立大学)で勉学に励みながら、ガンバではアカデミー、そして、練習生からスタートしたトップチームでの活動でプロでの一歩を踏み出した橋本氏は、J1、J2、J3だけでなく、JFLや地域リーグでもプレーし、通算621試合出場27得点という豊富な実績を残してきた。2007年にはイビチャ・オシム監督のもとで日本代表デビューも飾り、国際Aマッチ15試合出場を記録している。
地道にひたむきに研鑽を積み、「周りとの選手の連携を取る意識や、周りの選手の長所をどうやったら活かせるかということを考えるようにして、生き抜いてきた」というサッカー界屈指の頭脳派ボランチは、ガンバで2005年のJ1優勝など、数々のタイトル獲得に貢献。ガンバでの晩年はけがに見舞われたものの復活をとげ、33歳で最初の移籍を経験する。当時まだ無冠だったヴィッセルをタイトル獲得に導く切り札の1人として、隣県のライバルに加わった。
そのなかで、橋本氏は引退会見で各在籍クラブの思い出を話したとき、「ヴィッセルで1年目、33歳のとき、そのタイミングが、僕のプロサッカー人生の中で、けが以外で、一番きつかった1年間でした」と振り返った。
その理由は、ズバリ、J2降格。「特に1年目、入ったときは、タイトルを取るためにチームに行ったというなか、僕だけでなく田代有三や伊野波(雅彦)、野沢拓也だったり、J1で活躍してきた選手が集まって、じゃあどうやってチームを作っていこうかとチャレンジした年だった」にもかかわらず、2012シーズンのヴィッセルは序盤で公式戦6連敗を経験するなど低迷。途中から橋本氏がガンバ時代に師事した名将、西野朗氏が監督に就任したものの状況を改善するまでには至らず。まさかの16位に終わって、J1から陥落する事態になった。
「僕らは上を目指してチームにみんな集まったのに、逆の方向にチームが動くという、このギャップ(ができたところ)の難しさがあった。(実力がJ2)降格したら仕方ないなというものであれば、まだ感覚的にはわかるのですが、僕らは優勝争いするために集まったメンバーが、J1残留争いを気づいたらしていると。勝とうとしてもなかなか勝てないというか、そういう状態だったので、そこが本当にしんどかったですね。チームメイトと一緒にもがいても、自分が25年間やってきたなかでも一番負けたシーズンでした。勝てない苦しさだったりを経験しました」(橋本氏)
翌2013シーズンには、チームとともにJ2での戦いに身を置いた橋本氏。リーグ戦42試合中34試合に出場、そのうち25試合ではフル出場した背番号27は、ある試合ではセンターバックもこなすなど、自身の持ち味であるユーティリティー性をいかしながら神戸を支え、1年でのJ1復帰に大きく貢献した。
「そのシーズン(2013年)もみんなの中では苦しみもあったし、J1でやりたいと思ってきていた選手がJ2を戦うという、そういったギャップをみんなが感じながらやっていたところもあったのですが、途中から勝ち進むにつれて、J1昇格というベースのもとで、みんなが同じベクトルを持って戦う力の強さをすごく感じました。その楽しみや、『ここで昇格してまたJ1でやるんだ』という(目標に向かう)楽しさは感じられた1年やったなと」(橋本氏)
さらに、当時、大きなモチベーションとなったのはサポーターの存在だったと、橋本氏はいう。「J2に落ちたのに、サポーターの熱量がそんなに変わらなかったというのが、僕らにとってはすごく大きかったなと感じました」。2013シーズンのヴィッセルの総入場者数は24万1841人、平均入場者数は1万1516人。ライバルのガンバ戦で2万3012人、J1復帰に王手をかけていた京都サンガF.C.戦で2万2468人をホーム・ノエビアスタジアム神戸に集めるなど、J2ながら数多くのサポーターの後押しがあったことで、橋本氏は勇気づけられたと語る。
その後、2014シーズンでは韓国代表MFチョン・ウヨン選手(現、アル・サッド/カタール)や元ブラジル代表MFシンプリシオ氏の加入もあって先発の機会が限られたが、そのなかでもJ1で28試合に出場するなど、チームへの献身的な姿勢が際立った橋本氏。在籍3シーズンの間、ガンバ時代と同じく、練習後や試合後に発する落ち着いたコメントは、わかりやすく状況を説明するものであり、メディアからも「橋本先生」と評されるほど。MF森岡亮太選手(現、シャルルロワ/ベルギー)、FW小川慶治朗選手(現、横浜FC)、DF岩波拓也選手(現、浦和レッズ)ら当時の若手に与える影響も大きかった。
神戸の地で、「チームとして目標が一致して戦う楽しさを実感できた。チームのポジティブな喜びだったり、前向きな姿勢のエネルギーというのは、 すごくチームにとっていいんだなということがわかった」ことで、「それをきっかけに、その後の自分が43歳まで続けられる原動力に変わっていった」という橋本氏。「僕は3年間とちょっと短い期間でしたが、そのなかでも温かい声援を送ってもらって、そのあとも神戸でも声をかけてもらうこともありますし、すごくいい時間でした」と、ヴィッセルのファン・サポーターにも感謝の思いを述べていた。
今後は、「J1、J2、J3の(チームで)優勝できる監督になりたい。日本一の指導者になりたいというのが今の自分の目標」という橋本氏。この1年間は「いろんなことを挑戦していきたい」と、サッカー解説や、神奈川県1部リーグの鎌倉インターナショナルFCのアドバイザー兼フットボールDXオフィサーとして活動し、知見を深めていくそう。もちろん、古巣のガンバだけではなく、ヴィッセルなど、過去の在籍クラブでの監督業にも興味を抱いているという。
「いまはどうやったら監督になれるかはわからないですが、ヴィッセルでもそういったポジションにいけたらいきたいなと。それまでにどう力をつけていければ、いまのビッグクラブになったヴィッセル神戸に関われるのかなというふうに今は思っています」(橋本氏)
橋本氏は、様々なクラブでの経験をいかして、「(クラブの)目指すべきサッカーに合わせて、『こういうものができますよ』という提案ができるような監督になりたい」と、未来像を語る。その卓越した頭脳、サッカー観、そして豊富なキャリアは、日本サッカー界に必要とされるものになるだろう。いつか大阪や神戸の地で采配を振るい、チームを高みに導く姿を見せてほしいものだ。