世界文化遺産・平等院(京都府宇治市)鳳凰堂の屋根の一部が、1053(天喜元)年、摂政・関白を務めた藤原頼道(992〜1074)による創建当時、一部が”板葺き”だった可能性が極めて高いことがわかった。

 平等院が2023年8月末、創建当時の復元図を発表した。総持寺(大阪府茨木市)寺史編纂所の調査研究員・芦田淳一氏や、平等院の建造物維持管理担当技術者・鳴海祥博氏が、これまで幾度の修理などの際に判明した調査結果などを踏まえ、新たな考察を加えて公表した。

 鳳凰堂は頼通が1053年に建てた。もとは阿弥陀堂と称されていた。2023年は、建立970年にあたる。平安時代の中期以降、日本的な文化が完成する時代の建造物で、構造上は本尊・阿弥陀如来坐像が安置されている「中堂」と、中堂から左右(南北方向)に延びる「翼廊(よくろう)」、これが一般に知られる鳳凰堂の姿で、中堂の後ろにつながる「尾廊(びろう)」もある。

 今回新たにわかったのは、中堂の大屋根は現在と同様、"瓦葺き”だったという点。平成の修理(2012〜14年)で、創建時とされる瓦が280枚確認されていることを根拠とした。
 鳳凰堂創建当時の屋根の形状に関しては諸説がある。芦田氏によると、「当初、中堂の大屋根の飾り、甍棟(いらかむね・屋根の一番高いところ)として部分的に瓦が使われたという説があったが、この場合、使われる瓦は50枚程度で収まるが、280枚見つかったことを鑑みれば、大屋根自体に使われたと考えて矛盾はないという。

 一方、裳階(もこし)と呼ばれる大屋根の下にある装飾屋根や、左右にある翼廊の屋根は“板葺き”で、屋根自体の高さが瓦葺きとなっている現在より約30センチ(1尺)低いという研究結果が得られた。

 その根拠として、鳳凰堂の屋根裏から“板葺き”に使われた木材が見つかり、裳階や翼廊は傾斜がほとんどなく(緩い勾配)、瓦が葺きにくい形状だったことから、裳階と翼廊の屋根に使われていたとした。
鳴海氏は「屋根の勾配が緩やかな場合、瓦葺きにすると雨漏りが起きるし、雨水が逆流する恐れもある。そもそも設計段階で瓦葺きを想定していなかった」と話した。

 また、中堂のヒノキの厚板から風雨にさらされた跡が確認された。この厚板が、かつて屋根に使用されていた可能性が高いとみている。
 鳴海氏は、「現代ならば、瓦葺きがスタンダードだととらわれるかも知れないが、当時の最高の工法が板葺きだったのでないか。財力が豊富だった平等院が、瓦を調達できなかったということも考えにくい。そして、単なる板(木)として用いるのではなく、瑠璃色や金箔の装飾を施しやすいという点に着目したのではないか。ただ“雨ざらし”になることも想定し、現実的に装飾はできなかったかも知れない」と考察する。

 その上で、両氏は創建当時の鳳凰堂は“瓦葺き”と“板葺き”、この2つを調和させていたと結論づけた。実際に総瓦葺きとなったのは、創建から50年後、1101(康和3)年の大修理だったとみられる。

 平等院の神居文彰住職は「上層部分の豪壮な瓦葺きと、中層部(裳階)の柔らかな板葺きが調和した“ハイブリッドな”美しさをかもし出している。『ロスト・テクノロジー(過去に存在したが、何らかの理由により後世に伝えられなかった技術)』の再建にもつながるかも知れない。さらなる調査、研究を進めたい」と話した。