5月13日より、凪良ゆうの小説を原作とした映画『流浪の月』が公開されている。本作は松坂桃李と広瀬すずがW主演を務め、世間から「誘拐犯とその被害女児」という奇異の目で見られる役柄に挑む話題作だ。

 その2人が素晴らしいことはもちろん、本作を観て誰もが絶賛するのは横浜流星なのではないか。演じているのは「表向きは常識的な社会人」であるのだが、次第にその役柄の人間性と、横浜流星という俳優の演技力が、本気で恐ろしくなってくるほどだったからだ。作品の特徴と合わせて、その理由を綴っていこう。

(※編集部注:以下、物語上の重要な場面の描写を含みます)

◆“誘拐犯”を簡単には断罪しない
『流浪の月』のあらすじはこうだ。家に帰れない事情を抱えた小学生の更紗は、孤独な大学生の文と出会い、家に招き入れられるが、夏の終りに2人は「被害女児」と「誘拐犯」となってしまう。それから15年、ファミレスでアルバイトをしている更紗は経済力のある恋人の亮との結婚も決まり、穏やかな生活を続けていたはずだったが、ある日訪れた隠れ家的なカフェバーで文と再会し、人知れず通い続けることになる。

 物語の根底にあるのは「大学生の青年が小学生の女の子を家に招き入れ、誰にも知られない共同生活をしていた」という過去。それは当然、大人による未成年者誘拐の罪に問われる、社会的・法律的に許されざる事実だ。

 だが、『流浪の月』の劇中ではその危うすぎる2人の関係を単純に断罪しない。世間的には「凶悪なロリコンの誘拐犯」と「哀れなその被害女児」という関係だが、実際の彼らの生活を観てみれば、決してそれだけではない、恋人でも疑似的な親子でもない、そもそも言語化ができないような「絆」が生まれているようにも見えるのだ。

◆2人の関係を無条件に肯定もしない
 その一方で、彼らの関係を無条件に肯定をすることもしていない。少女が家に戻らずに青年の家で暮らし続けること、かつての誘拐犯に再会したことで巻き起こる世間の拒否反応などから、それがいかに世間的な「正しさ」から外れているかも、劇中では容赦なく描かれるのだ。

 しかも、周りの反応だけにとどまらず、彼らのやり取りそのものにも「愛情だけとは思えない危うさ」をそこはかとなく感じられる。青年と少女のときはもちろん、15年の時を経て再会してからも、微笑ましいやり取りだけではない、常識を逸脱したような言動がみて取れるのだ。

◆横浜流星の「表向きには良い男」からにじみ出る恐ろしさ
 誘拐犯と被害女児という関係への拒否反応、いや軽蔑や嫌悪の感情を一手に引き受けるキャラクターが劇中にいる。横浜流星演じる亮だ。亮とは、かつての被害女児・更紗の現在の恋人である。

 亮は安定した企業に勤め、普段は優しく男気にも溢れ、かつて恋人が誘拐された事実にも社会的な常識をわきまえて対応している、表向きには良い男だ。だが、恋人の更紗に性的な関係を迫る様が強引であったり、言葉の端々からそこはかとない束縛や独占欲が見えてきて、彼の家族からも隠された暴力性のことを聞かされる。じわじわと蓄積される不安が、とある形で爆発する様は、本気の恐怖を覚えるほどだった。

◆「哀れ」だからこそ同調もしてしまいそうになる
 その恐怖は、単に暴力的だったり支配的ということだけでもない。亮という人物が「哀れ」にも思えることにもあった。なぜなら、彼は真剣に思いを寄せ結婚の約束までした相手が、「かつての誘拐犯に再会している」ことを知るのだから。

 その後の亮は完全に間違った行為に及んでしまうのだが、そこに至るまでの拒否反応そのものは理解できる。彼は彼なりに正しいことをしていると信じているのだと思えるし、自身を被害者のように思い込んでいるように見える。噴出させる暴力性も独占欲も絶対に肯定できるはずがないのに、そうなってしまう彼に心から同調してしまいそうになることも、また恐ろしいのだ。

◆憔悴していく横浜流星の名演
 そのようにまで思わせてくれるのは、目に涙を浮かべるだけでなく、顔をくしゃくしゃになるまで歪ませ、哀しみを体現する横浜流星の演技力の賜物だ。前半はどこにでもいる普通の青年だったはずなのに、後半にかけて「憔悴しきる」ほどに感情も風貌も変化していく。その様は、従来の彼のイメージにも、はたまた抜群のルックスを活かした過去の善良な役ともかけ離れた、「鬼気迫る」という言葉でも足りないほどの名演だった。

 李相日監督によると、横浜流星は『流浪の月』の原作に惚れ込んでおり、幅広い役柄を演じたいという意欲が強く、また端正な面持ちの彼が人間臭く脆さのある亮としてどう膨らむのか興味が沸いたのだという。その演技力を最大限に発揮し作品に刻印できたのは、可能な限り劇中の時系列通りに撮影を進めていく「順撮り」のおかげでもあっただろう。

◆携帯電話の待ち受けを変えた意図
 空手の元世界チャンピオンでもあり、自他とともに認める「硬派」な横浜流星は、女性に甘えるという感覚がなく、そもそも男性は女性に甘えないという考えを持っていたため、広瀬すずとリハーサルを重ねてもなかなか「殻を破れない」日々が続いていたそうだ。しかし、演じている亮という役「らしい」宴会芸を披露して広瀬すずが笑ってくれた日に、その殻を破ったようにスタッフが思えたこともあったという。

 横浜流星は、原作を初めに読んだときは、誘拐犯である文目線だと、自身の亮という役を「この男、なんなんだよ」と相容れない感情を抱いていたものの、亮目線で読むと「彼にも悲しい過去があり、だからこそ更紗を愛して守り抜きたいと思っている」と共感もできたという(「Music Voice」より)。李相日監督の言うところの「人間臭く脆さのある」役柄を、彼は原作を読み込むことで自分のものとしたのだろう。

 さらに横浜流星は、撮影期間中に携帯電話の待ち受けを広瀬すずにしていたそうだ。その意図は、「それぐらい(恋人の)更紗のことしか考えないようにしようとした」「亮は愛に飢えているから、相手の愛を求めている」「“更紗を守りたい”という一心だけを大事にすればいい」ということだったという(「MANTANWEB」によるインタビューより)。それもまた、恋人への「愛情」という行動原理が根底にあり、それが歪んだ形で表れる役柄には、適切な役作りであったのだろう。

◆撮影や美術も最上級の仕上がりに
 その他にも、『流浪の月』が映画として最上級の仕上がりになった理由がある。撮影監督は『パラサイト 半地下の家族』のホン・ギョンピョ、美術監督は『思い出のマーニー』や『ヘイトフル・エイト』の種田陽平が務めており、光や画角を計算され尽くしたシーンの1つ1つがため息が出そうなほどに美しく、単なる部屋の一角にも「それだけでない」深みを与えているようにも見えてくる。

 松坂桃李、広瀬すず、横浜流星はもちろん、撮影時に弱冠11歳であった白鳥玉季の存在感と演技力にも感嘆する人も多いのではないか。その目には不安と信念が同居していて、単なる子どもとは言えない意志の強さを体現していた。その他、決して出番は多くないが、多部未華子、趣里、三浦貴大らが演じるキャラクターを自分と重ね合わせる人もいるはずだ。

◆「あなたはどう受け取るか」という宿題
『流浪の月』では主軸となる過去の出来事について、中立的かつグレーな描き方をしている。それは誘拐犯と被害女児という、劇中で横浜流星演じる亮と同様に、現実世界で拒否反応を覚える人のほうが圧倒的多数となるであろう題材を扱う上で、誠実なアプローチと言える。

 どちらかが正しくてどちらかが悪いという単純な図式で終わらせず、良い意味でモヤモヤさせられ、「あなたはどう受け取るか」という宿題を渡されたような余韻が残るのだ。

 現実における、同様の事件への過剰なバッシング、一方的な報道、はたまた事件の被害者への二次加害の問題に対して、主体的に考えるきっかけにもなるかもしれない。それこそが、『流浪の月』の物語に触れる大きな意義だろう。

◆原作の前に映画を観てほしい理由
 個人的に『流浪の月』は、原作の前に映画を観ることをおすすめしたい。原作では主人公の2人それぞれの一人称で綴られており、彼らの心情や意図がはっきりとわかるのだが、モノローグのない三人称視点の映画では必然的にそれらは明確になってはいない。だからこそ、俳優陣の熱演も相まって、映画からは「キャラクターの気持ちや関係性を類推する面白さ」が付け加わっていると言えるのだ。もちろん原作も素晴らしい作品であり、後から読めばより作品への理解は深まるだろう。

 何より『流浪の月』は徹頭徹尾、日本トップの俳優陣の演技のぶつかり合いと、映画としてのクオリティの高さを、とことん堪能できる一本だ。2時間30分と上映時間は長めであるが、それを感じさせないほど、のめり込んで観られるはずだ。ぜひ、劇場で見届けてほしい。

<文/ヒナタカ>